「ちみがそ」の宿題

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『風立ちぬ』


風立ちぬ』 監督:宮崎駿

 

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羽海野チカの将棋漫画『3月のライオン』に出てくる名人がいるが、十数年勝ち続けてて圧倒的に強いけど、漫画の主人公である高校生棋士と同じくらいの幼い容姿で、色白で、華奢で、将棋以外はぼんやりしてて、物静かを超えてもはや気配を消せてしまっているレベルっていう、その名人を指して「もし悪魔がいたとしたら、案外こんな姿かもしんねえ」という場面がある。『風立ちぬ』の主人公(堀越二郎)を見てこのエピソードを思い出してしまった。

なぜ堀越二郎は、(映画に直接は描かれなかったが確かに存在する)夢を叶えることなく死んでいった者たちのように夢を奪われることは無かったのか。なぜ彼は、その身の危険を周りの人間に救ってもらったのか。結果幸運にも生き延びることができたのか。仕事を続けることが出来たのか。なぜ彼は、自身の夢に対しまっとうなエクスキューズを与えてしまったのか。彼が何を為したのか映画だけでは良く分からなかったが、問題はそこではない。彼は、自身の意志や行為がどんな未来に接続されるのかを知っていたのだということ。ただ彼は想像しながらも、自身の根源的な欲求とそれとは無自覚に切り離しているような気がした。つまりは関係ないと。自分は悪魔ではないと。

やはりあの冒頭の数分間、あの時に彼は呪われたのではないか。それは「美しくも呪われた夢」といわれた飛行機の設計に捕らわれることではない。それは、美しいと思う己の内に介入できないことだ。無力であること。顧みることができないこと。疑うことができないこと。

或いは、むしろ呪われることで、人は世界と接続できるではないかということ。それまで世界は曖昧なままだから、「まじない」が必要だ。眼鏡を掛ければ世界を見ることができるように。冒頭の朝の光景の、(不穏というほどでもないが)わずかにあやしさを放ち、張り詰めた静けさ。そして落下。その後も、繰り返される墜落の場面。それは彼の挫折であるが、同時に彼の欲望が思わず漏れ出てしまう場面としか思えないのである。

これは不完全なヴィランが世界と対峙する物語ではないか。この映画はヴィラン視点から見た世界ではないのか。あらがえない運命、個人ではどうすることもできない流れというものがあるかもしれない。世界が良くない方向に向かっていて誰しもが漠然と感じているが、誰もそれを止めることが出来ない状態(それを推し進めるのは自分たちであったとしても)。仮にそんなものがあるとして、超越的な意思や力が世界を良い方向に修正してくれるということはあるのだろうか。あるわけないのだ。だからこそ、幻想の形としてヒーローが描かれるのである。ヴィランという言葉は、このヒーローの反対の言葉として選んだのだけど、彼の対峙する世界にヒーローは決して現れることは無い。ヴィラン視点から見る世界は、常に不吉な影がある。彼の命を、彼の夢を奪わんとする様々な脅威。形の無い、常にうごめく暗示。ドイツの夜での不穏な陰影。だが彼は退治されない。彼の前にヒーローは現れないのだ。彼の呪いを超える幻想は無いということ。世界は変えられないということ。最後に辿り着く場所。

それでも彼は生きねばならない。

 

 

風立ちぬ [DVD]

 

余談だけど、自らが強大な力を持ち、また努力次第で宇宙を変えてしまえるかもしれないと分かったとき、あなたならどうするだろうか。どうしたって宇宙を巻き込んでしまう、且つ全ての生命の総意なんて聞くことなんてできない欲望を、はたして留めておくことなんてできるだろうか。自分の力を凌駕する者が止めてくれない限り、立ち止まるなんてできないのではないか。そんな意味でなんとなく『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』のサノスのことも思い出した。ヴィラン達が見る世界。

 

『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』 - 「ちみがそ」の宿題

 

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再び『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』のこと

 

アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(Avengers: Infinity War)

 

 

ネタバレ。

 

 

ルッソ兄弟によるアベンジャーズ3作目はまるで「高速のONE PIECE」のようだった。『ONE PIECE』が(先人達の作品に学び)自身の語りの必然として組み立ててパターン化したものに近い、と言ったほうがいいのかもしれない。王道への忠心と貪欲な膨張が『ONE PIECE』にパターンを作ったのなら、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』は、必然の圧縮によって、更にその先を。結果として二つ似てるやん、みたいな。

 

  • 登場人物がめちゃ多い。
  • 各メンバーの活躍のために、ラスボスの下に敵キャラを取り揃える。(過去を掘り下げなくても)ちょうど気になるぐらいの、能力と見た目のバリエーション。バランスを考えたらこうなっちゃうという、だいたい五人ぐらいという塩梅。
  • 俺たちが今回の敵だぜみたいな、全員でワンフレームにおさまって決めてくれる場面がある。
  • 味方と敵をぶつけあわせて、余った分はラスボスへ回す。(結果として、最終形態を引き出す、体力を削る役)
  • ラスボスへのそれぞれの能力を活かした全員攻撃。
  • 総力戦がある。
  • 戦況がめまぐるしく変わる。
  • 最高戦力同士はなかなか出会わない。
  • 最高戦力は遅れてやってくる。
  • イムリミットがある。クライマックスを更新しながら持続させる。
  • 敵、味方ともに、目的達成の為のタスクが明確である。小ユニットごとにそれぞれの仕事が割り振られている。
  • 同時進行タスクの多さ。
  • 目的達成の過程において、メンバー同士の関係性に変化が生まれる。
  • メンバー個々の主題にまつわるエピソードが用意されている。(ほぼ全員)
  • いろんな島(星)に行く。
  • 目的達成の方法が、訪れた先の因縁や、自身のルーツに関わるものとなる。つまり「旅」とは、訪れる者、招く者、双方に変化をもたらす。
  • 敵側の「各島(星)で必要なものを集める」に、対となるものとして、「各島の悲願を主人公達が受け継ぐ」(或いは次の目的地に繋ぐ)。
  • 以上を、交通整理しながら、且つカタルシスを損なわないように、最短で処理する。

  

どうでしょうか。 

 

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sportmax06.hatenablog.com

 

 

ONE PIECE 88 (ジャンプコミックス)

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ONE PIECE 87 (ジャンプコミックス)

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『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』

 

アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(Avengers: Infinity War

 

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ネタバレ。

 

 

18:00の回を観て、映画館を出て時計を確認したらもう9時近かったのでめちゃ驚いた。そんなに経っていたのか。体感としては本当にあっという間だった。飽きさせない密度とスピードというのは、その通りだけど、私達の見知る物語が、過去を持ち寄ることは未来により自由でいる為だと(まるでそう言わんばかりに)、集結し、全ての手続きを圧縮して最大距離を目指した旅のようだった。誰かと出会い、そこからまた当然のように始まることの、幸福と、或いは宿命のようなもの。それは私達が理由を持ってここまで来たからに他ならないのだ。あなたとあなたを私は知っているということ。そして宇宙は一つだということ。いつだってクロスオーバーを待っていた。知っているヒーローの数だけ、私達には理由があったから。宇宙は一つだというなら、ここまで来た理由とヒーローの名前を一つだって失っちゃいない。不要になっちゃいない。抱えきれない理由を持つほどに、あなたとあなたがいつか出会うという想像は容易である。日々を懸命に生きながらただずっと待っていればよかった。それが今日だった。

 

そしてその日はサノスの旅でもあった。最後の場面。どこかの星で、のどかな風景を眺めながらサノスが、まるで長い旅が終わったかのように、ひと息ついている。

 

喪失だった。サノスの到達とは。この映画の結末とは。作為はなく、ただ無慈悲として(彼は慈悲と言う)ランダムに、半分が消失する。サノスによれば宇宙は狭いらしい。だから生命を半分にする。それが達成されたのだということ。ああ。サノス視点からすれば全ては煩わしかったのではないか。あらゆるヒーローがやってくる。なぎ払い、別の場所に行く、再びわらわらとヒーローがやってきて、またなぎ払う。きっといくつもの理由を持ってここに来たのだろう。だが知るほどに煩わしい。宇宙という狭い場所にそれらが数えきれないほど折り重なっていて、取り出せばきっと美しいものも、もはやもう見えないのと同じなのだろう。その全部がこんがらがっていて、ジタバタといつか破滅するだけ。そんな醜さしか見えない。

 

つまりアベンジャーズ(未知と出会うこと、理由が集うこと、それによって争いがあるかもしれないこと、不確定の未来にまだ希望も絶望もあるということ)とサノス(未知を遺棄すること、出会うことも出会ったことも手放してしまうこと、統べること、未来を選んだということ)の映画だった。サノスの脅威があり、だからこそ彼に惹かれてしまうのと同時に、映画にはアベンジャーズのクロスオーバーの魅力が満ち満ちていた。

 

スタークとドクター・ストレンジ

自らの信念と引き受けたものを決して譲ることはない。だけれどネットにはじかれたボールの、その先で、交わることを選ぶ。その高潔と切実。

 

スパイダーマンとピーター・クイル(GotG)。

境遇の違いと、ポップカルチャーの共有。たとえどんな場所にいたって、明日を生きる為に持ち得るもの。

 

ソーとグルート。

真剣に生きることの迷いの無さと、その意味。若者にとってそれは世界が示してくれなければ分からないということ。

 

他にも、ソーとピーター・クイルの張り合いや、ドラックスと社長との異次元の交流、スターバックスやオリンピック誘致じゃないワカンダの集結。どんな危機だって変わらないオコエの気高さ(今日がワガンダ最後の日かも...みたいな言葉に「ならば今日を誇り高い死にしよう」的な返し、めちゃくちゃかっこよかった)、ブラック・ウィドウの不敵さと、ハルクじゃないブルース・バナーの頼りなさの「いつもの面々」。クロスオーバーのあらゆる楽しさよ。

 

サノスという巨大さと、だからこそのたった一つの脅威と結論に、対になるものとして、アベンジャーズの多様と複雑と、どうしたって一つに染まりはしないことの強さがあるのではないか。「あった」のではないか。

 

そう、確かにそれは今日までは「あった」のだ。明日にはどうなるかを私達はまだ知らない。

『ゼロ・グラビティ』


ゼロ・グラビティ

監督:アルフォンソ・キュアロン 出演:サンドラ・ブロック ジョージ・クルーニー

 

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ネタバレ。

 

 

(世界はいとも簡単にあなたを殺す)。(あなたはあなたの意志で世界と自分を切断することができる)。(であるならば)。スイッチを切れば終わることができる世界で、何故生まれ落ちたのか。娘は何故生まれ落ちて、バカみたいと思えてしまう理由で死んでしまったのか。何故誰でもなく娘だったのか、何故死んだのは自分ではなく同僚なのか、そのことと、重力のある場所へ、大気圏に突入し、水から這い上がり、大地を踏みしめることと何が違うのか。(違わない)。宇宙で漂流することと、あてのないドライヴ。宇宙を漂流しながら彼らは、向かうべき方向を定め、果てのない世界に消える前に、向かうべき軌道に自らを修正した。重力とは何か。私たちは何に引っ張られているのか。何もない世界=重力のない世界で、突き出した足の先に、方角はあるのか。乱暴に言うのであれば、踏み出した足の先に、「行き先」を生むものがたぶん重力なのだ。世界は私が生きようと死のうと関心ないように、私は世界の非情を無視できる。無常を笑うことができる。私が生きようが死のうが、私は歩むべき道をつくりだせる。それは、生命の始まりが突き進むべき道であるように、あるいは赤子が生まれ落ちるように、自明なのだ。自明であるべきだと私たちは「帰還」する。発進と着地、生まれ出る場所と死に行く先。私たちは生まれたその瞬間から死に向かっているように、私たちは帰還しながらここに生まれたのだ。

 

 

 

 

『ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』

 

ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』 監督:ギレルモ・デル・トロ 出演:ロン・パールマン

 

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あらすじ:超常現象捜査防衛局“BPRD”のすご腕エージェント、ヘルボーイロン・パールマン)は、念動発火能力者の恋人リズ(セルマ・ブレア)らと組み、怪事件の捜査と魔物退治にあたっていた。一方そのころ、闇の世界では、地上の支配者となった人間を抹殺すべく、王子ヌアダ(ルーク・ゴス)が伝説の最強軍団ゴールデン・アーミーをよみがえらせようとしていて……。

www.cinematoday.jp

 


(ネタバレ)

 

敵対するエルフ族のヌアダ王子に誘われ、前作同様ダンジョンに入るヘルボーイ達。死の天使とのイベント。ゴールデンアーミーの目覚め。そしてヌアダ王子との決闘を終えてダンジョンの外へと出てくるのが終盤の展開である。ダンジョンに入る前と後、北アイルランドの岩地のロケーションはまったく変わらないが、(図らずも出迎えた形となった人間達に別れを告げて)どこかへ去っていくヘルボーイ達というラストシーンは、それまでのシーンにはなかった異様さを放つ。たとえばそれは、黒沢清『叫』での、役所広司小西真奈美が過ごす時間のヒリヒリとした静寂と、ラストシーンでの荒々しく静んでゆくという別離の間に、もしかしたら見ていたかもしれない光景であるし、『回路』での、もともと別の場所にあったもの同士が融解しだす、1つの場所に2つが存在してしまったことの、かつてと同じ光景であるのにまるで違う世界が眼前に在るという「確信」に近いのかもしれない。
結論から言えばあのラストは、人間達のあずかり知らぬ間にヘルボーイ達に此岸から彼岸にまたがれてしまった、ということを告げるシーンだ。

 

  • 前作と違い、ダンジョンに入っていくメンバーに人間(非能力者)はいない。
  • この映画にはエルフやトロールが登場するのだが、人間に干渉しないように(干渉されないように)違う場所に住んでいるだけであって、人間との間には境界は見受けられない。むしろヘルボーイ達こそがどちらからも外部である、という撮り方をされている。
  • ヘルボーイ達と(ヘルボーイに守られる存在としての)人間達との間にあるものは、多くのエピソードから伝わるが、人間側については何ら掘り下げられていない。前作はヘルボーイの育て親である教授(人間)の視点があり、またキャラクターとして人間の相棒がいた。だが2人は本作では最初から退場しており、一般市民の赤ちゃんを救う場面もあるが、「人間側」を示すものはほとんどがもう「ブラウン管の中」だ。本作においてヘルボーイは人間を「人間側」としてしか見ていない。もしかしたらすでに人間の方向など振り向きもしていなかったのではないか。
  • ヘルボーイの強さはその頑丈さであるとして、王子の強さとはスピードと鋭刃である。だが彼を突き動かすものはその脆さだ。王子は過去=傷を背負うゆえに、はじめて攻撃の対象を得る=強さを獲得する。過去がある限り、それは傷を永続的に背負うことと等しいが、過去こそが彼を動かしている。ヘルボーイが植物の巨人(その種族の最後のひとり)を殺すのを王子が見届けるというのは、とても象徴的だ。王子が誰かに託すとすればそれはヘルボーイが相応しい。あの頑丈さはヘルボーイヘルボーイであることの何だ?王子は死なない限り歩みを止めない。
  • 王子がヘルボーイの胸に槍を突き刺し破片を埋め込むのは、人間とエルフが生きる世界の痛みを共有せよということだ。であるならば死の天使との契り《刃を取り除くが、貴様はヘルボーイと人間とのどんな結末も受け入れれるのか?》は、お前らの痛みを背負わないぜという、人間とエルフが生きる世界との決別を意味するのではないか。
  • 前作からヘルボーイは、敵方に、お前は近い将来人類を滅ぼすだろうと度々告げられている。

 

ヘルボーイと新しい仲間ヨハン・クラウスがロッカールームでケンカするところの楽しさや、エイブ(魚人)の片思いエピソードの切なさや可笑しみ、その他ユニークなギミックの数々。『ヘルボーイ』のキャラクターへの私達の親しみとは裏腹に、映画の関心は実は【ヘルボーイと私達が近づいていくこと】に向いていないのではいか。おそらくデル・トロが見たいものは美しいさよならである。「非なるものが似て」いるからこそ「接近」できるのではなく、「似て非なるもの」だからこそさよならが言えるということ。まるでそんな映画。2つの別々の軌道が近づくとき、その「接近」は隔たりの始まりで、こんにちわの振りしてさよならする。

 

 

『猿の惑星:創世記』

 

 

猿の惑星:創世記』 監督:ルパート・ワイアット 出演:ジェームズ・フランコ アンディ・サーキス フリーダ・ピントー 

 

国立公園の木の上から見渡す風景。その世界は、彼の身体の躍動/衝動がどこまでも塞がれることの無い、くらむようなはての無い拡がりに満ちていた。だが見渡すことが意味する世界の拡張には、輝かしさと同時に、小さな世界の消滅という苛烈さとセットでもある。戻ろうとももはやそれは閉じた世界でしかなく、見てしまったことに後戻りは出来ない。この映画でいえば、「見渡せてしまう」位置からは、ある種の立場や、あるいは自覚を生んでしまう。世界は拡がるが同時に、個である限り摩擦は避けられない。世界に対し個であろうとする限りは受容/拒絶を繰り返さざるを得ない。見下ろす行為には、決定的な差異/断絶を自覚する場面でも有り、見下ろす/見上げることの関係性とはつまり決別の瞬間であるとは言えないだろうか。

そこから唯一保護される場所が、幼少に育った屋根裏にある小さな窓越しの世界である。窓越しの世界とは、好奇心を向けても敵意/痛みが返ってこない場所。だが彼の身体/本能はそれがかりそめのホームであることを知っている。何よりそこが終わりが訪れる場所であると教えたのは、先に人間のほうなのだ。人を襲ったシーザーに向けられる人間の眼差し。人間と猿の視線には、わずかだが確かな高低差があった。あるいはシーザーの育て親が見上げる先にシーザーは居たのか。シーザーは木から降りてくる。目線を同じ位置に合わせたのはどっちだろう。盲目だったのはどっちだろう。

シーザーもまた人間でも猿でもない存在であることを思い知るのであり、サル山の上から何を見るのだろうか。猿たちを無理やり進化させ、強引に自分の目線まで引き上げさせることの行為は、傲慢でないと言い切れない。

飼育員との対決は、この映画の前後半を決定的に分かつ中間点として機能している。同じ目線の位置で憎しみを向けあうこのシーンが、映画での最後の「対等」でなかったか。以降、人類と猿の逆転が始まる。研究所のロビーでの見下ろす/見上げる関係に、猿たちのもはや思い直すこともないであろう確固不抜の決別の意思をみる。革命の狼煙、猿たちの闘争が続くのだが、そして猿たちはもう人間と同じ位置で戦ってはくれない。猿が高いところに立ちたがるのではなく、人間が自分の位置から動けないままなのだ。

映画の最後は再び国立公園の木の上のからの風景で閉じる。違うのはシーザーの後ろには仲間が居るということだ。我々は彼らがその光景から何を見ているのかはしらない。だが、同じ位置に立ち並ぶ彼らの背中から、自ずとそれは彼らが対峙すべきもの、より輪郭をはっきりとした「世界」の形、あるいは「人類」の姿が立ち現れてくる。

『エリジウム』 ニール・ブロムカンプ

 

 

エリジウム』(2013年) 監督:ニール・ブロムカンプ 出演:マット・デイモン

 

2154年。人口増加と環境破壊で荒廃が進む地球。その一方、一握りの富裕層だけは、400キロ上空に浮かぶスペース・コロニー“エリジウム”で何不自由ない暮らしを送っていた。そこには、どんな病気も一瞬で完治する特殊な医療ポッドがあり、美しく健康な人生を謳歌することが出来た。そんなエリジウムを頭上に臨みながら地上で暮らす男マックスは、ロボットの組み立て工場で過酷な労働に従事していた。ある時彼は、工場で事故に遭い、余命5日と宣告されてしまう。生き延びるためにはエリジウムで治療する以外に道はない。そこでマックスはレジスタンス組織と接触し、決死の覚悟でエリジウムへの潜入を図る。ところが、そんな彼の前に、一切の密入国を冷酷非情に取り締まる女防衛長官デラコートが立ちはだかる。
<allcinema>

 

ロボットに余命5日を告げられ、生きる為の行動を思案するまでの準備の期間、例えば私達であればベッドが用意され、限りなく静止しているような時間を与えられるかもしれないが、マット・デイモンは身の置き場所を探さねばならず、整理できぬまま覚悟できぬまま、時間は関係なく容赦無く進み続ける。職場から追い出され、自力での帰宅を図り友人に発見されるまでの間の、居場所の無さと、時間の寄り添わなさ。さりげなく語られるこの場面が最も恐ろしいと感じたし、映画が見せるこの世界の形であると思った。永遠というものがあったかのような記憶の中での景色や、そこでの「いつか」という言葉の緩やかな時間、それらはどこにあるのか今も続いているのだろうか。命の期限が迫っているからというのは当然であるが、それ以上に気づけば削られていた時間と場所の感覚こそが、なりふり構わない、無理やり進まなければならないという、彼を突き動かすものとしてあるように思えた。行かなければならないという思いは、偶然や都合や敵すらを取り込み、力ずくで大気圏を超えたあの距離を突破するのである。

そして、エリジウムに辿り着く時の転がり込むようなあっけなさよ。エリジウムは遠くから眺めるべき何か。どこからでも見えるが拒絶された場所。それが手元に届くかというときのあまりに頼りない感触。中枢までの通路での、現実感のないままの死闘。マット・デイモンの終着とはなんだったのか、それはエリジウムの終わりの始まりなのか。地球に外付けされた楽園、あるいは脳とプログラム、人体と機械(外骨格)、社会とロボット、生命とテクノロジー、すべての苦悩から切り離したいとするそれらは、常にアンバランスに混在したまま繋がっている。一方に完全に移行するには、一方の完全な死を意味する。そして一方の死とはすなわちもう一方の死である。故にここで疲弊して世界の終わりまで生き続けるしかないのか。どこまでも混ざり合ったまま「いつか」ある死を待つだけなのだろうか。先のわからない、半ばヤケクソな問いを。

だがどうだろう。マット・デイモンが薬を丸ごと飲み込んで奮い立つ姿に、あるいはクルーガー(シャールト・コプリー)の恐れを知らず突き進む姿に、他のすべてを失ってもやらなければならないという2人の戦いに、何かの結実とは別のところで、一瞬の自由を見た気がした。

 

 

ニール・ブロムカンプ - 映画.com

エリジウム/「俺達には、俺達しか味方が無えんだ」: 傷んだ物体/Damaged Goods

映画批評0428「チャッピー」 - 鶴原顕央の【映画批評と物語構成論】 [まぐまぐ!]