「ちみがそ」の宿題

https://twitter.com/chimigaso

『桐島、部活やめるってよ』

 

桐島、部活やめるってよ

 

監督:吉田大八 出演:神木隆之介 橋本愛 大後寿々花 東出昌大 松岡茉優

 

f:id:sportmax06:20180516175504j:plain


(ネタバレ)


登場人物すべてが何かしらの切実さを抱えており、普段それは誰かに向けられるものではなく、というよりも常に回避され隠されるべきものであり、しかし映画は、それぞれの切実が外に向いてしまう瞬間を、周到に適切なタイミングで用意している。その瞬間が見せるのは、切実さは外に向けた途端、敵意に近いような歪なものになるということ。

学校という環境が特別であるから起こるわけではなく、切実さはどんなときだって普遍的に持ち得るものであり、この映画に対し、自分の高校の話とか、あの頃はどうだとかいう話は、あまり言いたくはないなと思う。それは、過去は常に無自覚であった時が大半であるような気がするし、10代なんて圧倒的にそうであったはずだし、その曖昧な空間を、映画が隙間を埋めるように浸食して、思い出はいつも虚構であることの脅威があるから。あるいは登場人物たちへの共感は、彼らへの不誠実さである気がしてならない。あるあるとか絶対言ってやるかっていう。彼らの行動は、観る者の誰かにとってはリアルかもしれないけど、誰かの「いつか」のトレースだったら、彼らはいったいどこに居るんだっていう。そう思わせるような切実さが、吐き出せば不協和しか生み出さないかのようなそれが、映画の中に確かにあり、ぐらぐらと不安定な彼らの場所/関係性と共に描き出されていくのだ。

そして重要なのが、この映画の「視点」である気がする。登場人物たちが、持ち得ることのない視点。この映画のクライマックスはどこだろうと考えたとき、それはその視点と対峙したときではないだろうか。神木くんのカメラが映す先は、彼の主観であり、切実さそのものだ。だが神木くんから宏樹に向けられる時。手持ちの8ミリカメラに宿るそれは、レンズの向こうのそれは何なのか。神木くんから宏樹への視線は、カメラを介することで、すでに神木くんの視点では無くなっているのではないか。たとえば冒頭、桐島の彼女が歩く姿を高所から捉えた場面のような、そこに宿るのは、映画が終始持ち得ていた視点ではないのか。宏樹はその視点と対峙させられる。それは、自身の切実さに無自覚であろうとし続けた彼の正体を暴くのだ。

桐島の不在とはつまり、「終わり」であり「終わってしまった」ことそのものについてなんだろう。はじめに終わりがあり、それをごまかし続け足掻く人間と、最初から終わりであることを知ってしまった人間の物語。残酷だけど、きりきりと確実に、ゆっくりと人を殺すことの美しさがラストシーンであり、それだけでもこの映画を価値あるものにしている。

けれども死んでも生き続けなきゃならない、それは自明のことなんだよ。

 

f:id:sportmax06:20180516175600j:plain

  

sportmax06.hatenablog.com

 

桐島、部活やめるってよ

桐島、部活やめるってよ

 

 

 

『ローン・レンジャー』

 

ローン・レンジャー

監督:ゴア・ヴァービンスキー 出演:ジョニー・デップ アーミー・ハマー

 

f:id:sportmax06:20180507005149j:image

 

  • コマンチ族は、我々はすでに亡霊であると武器を手にする。トントは悪霊と契約したのだと、さまよい続ける。運命の重さと選択の鈍い音。だが主人公(アーミー・ハマー)が無法者になろうと決意する時の、まるで手にする武器を変えただけかのような身軽さは何であろう。運命に捕らわれない故にヒーローなのだ。
  • ヘレナ・ボナム・カーターも良い。主人公とトントの道中に彼女を加えた方が華があった気もするが、そうはいかない。彼女は主人公達の背中を押すだけ。 その関わらなさと、一瞬の派手さと、直後の飄々とやり過ごす姿と。そこには彼女の強さと気高さがあり、とてもかっこ良かった。
  • 逆襲のはじはりが、ゆるやかに動き出す。したたかな合図から、もう動き出してしまったことに迷いはいらない。列車の上、橋までの間。アドリブの中で過去との決別が軽やかに行われることが素晴らしい。
  • 登場人物たちの向かうべき時の独特のしなやかさは何だろうか。『3時10分、決断のとき』でもそうだった。ラストにラッセルの、それまでの道のりの重さを引き受けたまま置き去ることなしに、勇むことも躊躇することもなく平静に踏み出す「出発」の軽妙さよ。
  • 悪が運び込まれる(キャベンディッシュ)、不吉を呼び込む(少年トントと白人)ことで始まった物語は、自らが運び出すこと(機関車)で追い払うという。運命にケリをつけることが、ゆっくりと動き出す鉄の塊の、その重さの確かさによって果たされるのだ。ここすごく良い。
  • あと、なぜ語り部が必要なのかは少し考えてみるべきだろうか。『パイレーツ・オブ・カリビアン』3作において(特に2作目だが)、オーランド・ブルームキーラ・ナイトレイが選び取るものは常にジャック・スパロウが持ってきたものの中からであること。世界と彼らが接続するには?間には常にスパロウがいる。世界はスパロウを通してしか見えないということ。
  • ローン・レンジャーは死なない男とされている。まるで彼が選び取る手段こそが、【未来】に向かうための唯一の方法のように。我々を目的地に運ぶために、そこに向かう意思の具現である故に、彼はヒーローなのではないか。

 

 

 

『風立ちぬ』


風立ちぬ』 監督:宮崎駿

 

f:id:sportmax06:20180504083808j:image


羽海野チカの将棋漫画『3月のライオン』に出てくる名人がいるが、十数年勝ち続けてて圧倒的に強いけど、漫画の主人公である高校生棋士と同じくらいの幼い容姿で、色白で、華奢で、将棋以外はぼんやりしてて、物静かを超えてもはや気配を消せてしまっているレベルっていう、その名人を指して「もし悪魔がいたとしたら、案外こんな姿かもしんねえ」という場面がある。『風立ちぬ』の主人公(堀越二郎)を見てこのエピソードを思い出してしまった。

なぜ堀越二郎は、(映画に直接は描かれなかったが確かに存在する)夢を叶えることなく死んでいった者たちのように夢を奪われることは無かったのか。なぜ彼は、その身の危険を周りの人間に救ってもらったのか。結果幸運にも生き延びることができたのか。仕事を続けることが出来たのか。なぜ彼は、自身の夢に対しまっとうなエクスキューズを与えてしまったのか。彼が何を為したのか映画だけでは良く分からなかったが、問題はそこではない。彼は、自身の意志や行為がどんな未来に接続されるのかを知っていたのだということ。ただ彼は想像しながらも、自身の根源的な欲求とそれとは無自覚に切り離しているような気がした。つまりは関係ないと。自分は悪魔ではないと。

やはりあの冒頭の数分間、あの時に彼は呪われたのではないか。それは「美しくも呪われた夢」といわれた飛行機の設計に捕らわれることではない。それは、美しいと思う己の内に介入できないことだ。無力であること。顧みることができないこと。疑うことができないこと。

或いは、むしろ呪われることで、人は世界と接続できるではないかということ。それまで世界は曖昧なままだから、「まじない」が必要だ。眼鏡を掛ければ世界を見ることができるように。冒頭の朝の光景の、(不穏というほどでもないが)わずかにあやしさを放ち、張り詰めた静けさ。そして落下。その後も、繰り返される墜落の場面。それは彼の挫折であるが、同時に彼の欲望が思わず漏れ出てしまう場面としか思えないのである。

これは不完全なヴィランが世界と対峙する物語ではないか。この映画はヴィラン視点から見た世界ではないのか。あらがえない運命、個人ではどうすることもできない流れというものがあるかもしれない。世界が良くない方向に向かっていて誰しもが漠然と感じているが、誰もそれを止めることが出来ない状態(それを推し進めるのは自分たちであったとしても)。仮にそんなものがあるとして、超越的な意思や力が世界を良い方向に修正してくれるということはあるのだろうか。あるわけないのだ。だからこそ、幻想の形としてヒーローが描かれるのである。ヴィランという言葉は、このヒーローの反対の言葉として選んだのだけど、彼の対峙する世界にヒーローは決して現れることは無い。ヴィラン視点から見る世界は、常に不吉な影がある。彼の命を、彼の夢を奪わんとする様々な脅威。形の無い、常にうごめく暗示。ドイツの夜での不穏な陰影。だが彼は退治されない。彼の前にヒーローは現れないのだ。彼の呪いを超える幻想は無いということ。世界は変えられないということ。最後に辿り着く場所。

それでも彼は生きねばならない。

 

 

風立ちぬ [DVD]

 

余談だけど、自らが強大な力を持ち、また努力次第で宇宙を変えてしまえるかもしれないと分かったとき、あなたならどうするだろうか。どうしたって宇宙を巻き込んでしまう、且つ全ての生命の総意なんて聞くことなんてできない欲望を、はたして留めておくことなんてできるだろうか。自分の力を凌駕する者が止めてくれない限り、立ち止まるなんてできないのではないか。そんな意味でなんとなく『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』のサノスのことも思い出した。ヴィラン達が見る世界。

 

『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』 - 「ちみがそ」の宿題

 

f:id:sportmax06:20180504170715j:image

 

 

 

 

 

再び『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』のこと

 

アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(Avengers: Infinity War)

 

 

ネタバレ。

 

 

ルッソ兄弟によるアベンジャーズ3作目はまるで「高速のONE PIECE」のようだった。『ONE PIECE』が(先人達の作品に学び)自身の語りの必然として組み立ててパターン化したものに近い、と言ったほうがいいのかもしれない。王道への忠心と貪欲な膨張が『ONE PIECE』にパターンを作ったのなら、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』は、必然の圧縮によって、更にその先を。結果として二つ似てるやん、みたいな。

 

  • 登場人物がめちゃ多い。
  • 各メンバーの活躍のために、ラスボスの下に敵キャラを取り揃える。(過去を掘り下げなくても)ちょうど気になるぐらいの、能力と見た目のバリエーション。バランスを考えたらこうなっちゃうという、だいたい五人ぐらいという塩梅。
  • 俺たちが今回の敵だぜみたいな、全員でワンフレームにおさまって決めてくれる場面がある。
  • 味方と敵をぶつけあわせて、余った分はラスボスへ回す。(結果として、最終形態を引き出す、体力を削る役)
  • ラスボスへのそれぞれの能力を活かした全員攻撃。
  • 総力戦がある。
  • 戦況がめまぐるしく変わる。
  • 最高戦力同士はなかなか出会わない。
  • 最高戦力は遅れてやってくる。
  • イムリミットがある。クライマックスを更新しながら持続させる。
  • 敵、味方ともに、目的達成の為のタスクが明確である。小ユニットごとにそれぞれの仕事が割り振られている。
  • 同時進行タスクの多さ。
  • 目的達成の過程において、メンバー同士の関係性に変化が生まれる。
  • メンバー個々の主題にまつわるエピソードが用意されている。(ほぼ全員)
  • いろんな島(星)に行く。
  • 目的達成の方法が、訪れた先の因縁や、自身のルーツに関わるものとなる。つまり「旅」とは、訪れる者、招く者、双方に変化をもたらす。
  • 敵側の「各島(星)で必要なものを集める」に、対となるものとして、「各島の悲願を主人公達が受け継ぐ」(或いは次の目的地に繋ぐ)。
  • 以上を、交通整理しながら、且つカタルシスを損なわないように、最短で処理する。

  

どうでしょうか。 

 

f:id:sportmax06:20180501193500j:plain

 

 

sportmax06.hatenablog.com

 

 

ONE PIECE 88 (ジャンプコミックス)

ONE PIECE 88 (ジャンプコミックス)

 

 

ONE PIECE 87 (ジャンプコミックス)

ONE PIECE 87 (ジャンプコミックス)

 

 



 

『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』

 

アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(Avengers: Infinity War

 

f:id:sportmax06:20180429173934j:plain

 

 

ネタバレ。

 

 

18:00の回を観て、映画館を出て時計を確認したらもう9時近かったのでめちゃ驚いた。そんなに経っていたのか。体感としては本当にあっという間だった。飽きさせない密度とスピードというのは、その通りだけど、私達の見知る物語が、過去を持ち寄ることは未来により自由でいる為だと(まるでそう言わんばかりに)、集結し、全ての手続きを圧縮して最大距離を目指した旅のようだった。誰かと出会い、そこからまた当然のように始まることの、幸福と、或いは宿命のようなもの。それは私達が理由を持ってここまで来たからに他ならないのだ。あなたとあなたを私は知っているということ。そして宇宙は一つだということ。いつだってクロスオーバーを待っていた。知っているヒーローの数だけ、私達には理由があったから。宇宙は一つだというなら、ここまで来た理由とヒーローの名前を一つだって失っちゃいない。不要になっちゃいない。抱えきれない理由を持つほどに、あなたとあなたがいつか出会うという想像は容易である。日々を懸命に生きながらただずっと待っていればよかった。それが今日だった。

 

そしてその日はサノスの旅でもあった。最後の場面。どこかの星で、のどかな風景を眺めながらサノスが、まるで長い旅が終わったかのように、ひと息ついている。

 

喪失だった。サノスの到達とは。この映画の結末とは。作為はなく、ただ無慈悲として(彼は慈悲と言う)ランダムに、半分が消失する。サノスによれば宇宙は狭いらしい。だから生命を半分にする。それが達成されたのだということ。ああ。サノス視点からすれば全ては煩わしかったのではないか。あらゆるヒーローがやってくる。なぎ払い、別の場所に行く、再びわらわらとヒーローがやってきて、またなぎ払う。きっといくつもの理由を持ってここに来たのだろう。だが知るほどに煩わしい。宇宙という狭い場所にそれらが数えきれないほど折り重なっていて、取り出せばきっと美しいものも、もはやもう見えないのと同じなのだろう。その全部がこんがらがっていて、ジタバタといつか破滅するだけ。そんな醜さしか見えない。

 

つまりアベンジャーズ(未知と出会うこと、理由が集うこと、それによって争いがあるかもしれないこと、不確定の未来にまだ希望も絶望もあるということ)とサノス(未知を遺棄すること、出会うことも出会ったことも手放してしまうこと、統べること、未来を選んだということ)の映画だった。サノスの脅威があり、だからこそ彼に惹かれてしまうのと同時に、映画にはアベンジャーズのクロスオーバーの魅力が満ち満ちていた。

 

スタークとドクター・ストレンジ

自らの信念と引き受けたものを決して譲ることはない。だけれどネットにはじかれたボールの、その先で、交わることを選ぶ。その高潔と切実。

 

スパイダーマンとピーター・クイル(GotG)。

境遇の違いと、ポップカルチャーの共有。たとえどんな場所にいたって、明日を生きる為に持ち得るもの。

 

ソーとグルート。

真剣に生きることの迷いの無さと、その意味。若者にとってそれは世界が示してくれなければ分からないということ。

 

他にも、ソーとピーター・クイルの張り合いや、ドラックスと社長との異次元の交流、スターバックスやオリンピック誘致じゃないワカンダの集結。どんな危機だって変わらないオコエの気高さ(今日がワガンダ最後の日かも...みたいな言葉に「ならば今日を誇り高い死にしよう」的な返し、めちゃくちゃかっこよかった)、ブラック・ウィドウの不敵さと、ハルクじゃないブルース・バナーの頼りなさの「いつもの面々」。クロスオーバーのあらゆる楽しさよ。

 

サノスという巨大さと、だからこそのたった一つの脅威と結論に、対になるものとして、アベンジャーズの多様と複雑と、どうしたって一つに染まりはしないことの強さがあるのではないか。「あった」のではないか。

 

そう、確かにそれは今日までは「あった」のだ。明日にはどうなるかを私達はまだ知らない。

『ゼロ・グラビティ』


ゼロ・グラビティ

監督:アルフォンソ・キュアロン 出演:サンドラ・ブロック ジョージ・クルーニー

 

f:id:sportmax06:20180430122954j:plain

 

 

ネタバレ。

 

 

(世界はいとも簡単にあなたを殺す)。(あなたはあなたの意志で世界と自分を切断することができる)。(であるならば)。スイッチを切れば終わることができる世界で、何故生まれ落ちたのか。娘は何故生まれ落ちて、バカみたいと思えてしまう理由で死んでしまったのか。何故誰でもなく娘だったのか、何故死んだのは自分ではなく同僚なのか、そのことと、重力のある場所へ、大気圏に突入し、水から這い上がり、大地を踏みしめることと何が違うのか。(違わない)。宇宙で漂流することと、あてのないドライヴ。宇宙を漂流しながら彼らは、向かうべき方向を定め、果てのない世界に消える前に、向かうべき軌道に自らを修正した。重力とは何か。私たちは何に引っ張られているのか。何もない世界=重力のない世界で、突き出した足の先に、方角はあるのか。乱暴に言うのであれば、踏み出した足の先に、「行き先」を生むものがたぶん重力なのだ。世界は私が生きようと死のうと関心ないように、私は世界の非情を無視できる。無常を笑うことができる。私が生きようが死のうが、私は歩むべき道をつくりだせる。それは、生命の始まりが突き進むべき道であるように、あるいは赤子が生まれ落ちるように、自明なのだ。自明であるべきだと私たちは「帰還」する。発進と着地、生まれ出る場所と死に行く先。私たちは生まれたその瞬間から死に向かっているように、私たちは帰還しながらここに生まれたのだ。

 

 

 

 

『ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』

 

ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』 監督:ギレルモ・デル・トロ 出演:ロン・パールマン

 

f:id:sportmax06:20180305155005j:plain

 

あらすじ:超常現象捜査防衛局“BPRD”のすご腕エージェント、ヘルボーイロン・パールマン)は、念動発火能力者の恋人リズ(セルマ・ブレア)らと組み、怪事件の捜査と魔物退治にあたっていた。一方そのころ、闇の世界では、地上の支配者となった人間を抹殺すべく、王子ヌアダ(ルーク・ゴス)が伝説の最強軍団ゴールデン・アーミーをよみがえらせようとしていて……。

www.cinematoday.jp

 


(ネタバレ)

 

敵対するエルフ族のヌアダ王子に誘われ、前作同様ダンジョンに入るヘルボーイ達。死の天使とのイベント。ゴールデンアーミーの目覚め。そしてヌアダ王子との決闘を終えてダンジョンの外へと出てくるのが終盤の展開である。ダンジョンに入る前と後、北アイルランドの岩地のロケーションはまったく変わらないが、(図らずも出迎えた形となった人間達に別れを告げて)どこかへ去っていくヘルボーイ達というラストシーンは、それまでのシーンにはなかった異様さを放つ。たとえばそれは、黒沢清『叫』での、役所広司小西真奈美が過ごす時間のヒリヒリとした静寂と、ラストシーンでの荒々しく静んでゆくという別離の間に、もしかしたら見ていたかもしれない光景であるし、『回路』での、もともと別の場所にあったもの同士が融解しだす、1つの場所に2つが存在してしまったことの、かつてと同じ光景であるのにまるで違う世界が眼前に在るという「確信」に近いのかもしれない。
結論から言えばあのラストは、人間達のあずかり知らぬ間にヘルボーイ達に此岸から彼岸にまたがれてしまった、ということを告げるシーンだ。

 

  • 前作と違い、ダンジョンに入っていくメンバーに人間(非能力者)はいない。
  • この映画にはエルフやトロールが登場するのだが、人間に干渉しないように(干渉されないように)違う場所に住んでいるだけであって、人間との間には境界は見受けられない。むしろヘルボーイ達こそがどちらからも外部である、という撮り方をされている。
  • ヘルボーイ達と(ヘルボーイに守られる存在としての)人間達との間にあるものは、多くのエピソードから伝わるが、人間側については何ら掘り下げられていない。前作はヘルボーイの育て親である教授(人間)の視点があり、またキャラクターとして人間の相棒がいた。だが2人は本作では最初から退場しており、一般市民の赤ちゃんを救う場面もあるが、「人間側」を示すものはほとんどがもう「ブラウン管の中」だ。本作においてヘルボーイは人間を「人間側」としてしか見ていない。もしかしたらすでに人間の方向など振り向きもしていなかったのではないか。
  • ヘルボーイの強さはその頑丈さであるとして、王子の強さとはスピードと鋭刃である。だが彼を突き動かすものはその脆さだ。王子は過去=傷を背負うゆえに、はじめて攻撃の対象を得る=強さを獲得する。過去がある限り、それは傷を永続的に背負うことと等しいが、過去こそが彼を動かしている。ヘルボーイが植物の巨人(その種族の最後のひとり)を殺すのを王子が見届けるというのは、とても象徴的だ。王子が誰かに託すとすればそれはヘルボーイが相応しい。あの頑丈さはヘルボーイヘルボーイであることの何だ?王子は死なない限り歩みを止めない。
  • 王子がヘルボーイの胸に槍を突き刺し破片を埋め込むのは、人間とエルフが生きる世界の痛みを共有せよということだ。であるならば死の天使との契り《刃を取り除くが、貴様はヘルボーイと人間とのどんな結末も受け入れれるのか?》は、お前らの痛みを背負わないぜという、人間とエルフが生きる世界との決別を意味するのではないか。
  • 前作からヘルボーイは、敵方に、お前は近い将来人類を滅ぼすだろうと度々告げられている。

 

ヘルボーイと新しい仲間ヨハン・クラウスがロッカールームでケンカするところの楽しさや、エイブ(魚人)の片思いエピソードの切なさや可笑しみ、その他ユニークなギミックの数々。『ヘルボーイ』のキャラクターへの私達の親しみとは裏腹に、映画の関心は実は【ヘルボーイと私達が近づいていくこと】に向いていないのではいか。おそらくデル・トロが見たいものは美しいさよならである。「非なるものが似て」いるからこそ「接近」できるのではなく、「似て非なるもの」だからこそさよならが言えるということ。まるでそんな映画。2つの別々の軌道が近づくとき、その「接近」は隔たりの始まりで、こんにちわの振りしてさよならする。