「ちみがそ」の宿題

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『蜘蛛の瞳』 黒沢清

 
蜘蛛の瞳 [DVD]

蜘蛛の瞳 [DVD]

『蜘蛛の瞳』 監督:黒沢清
 
  • 個人に胎動し拡散する「殺意」ではなく、始まりを知れず人から人へ脈々と移り流れてきた「殺意」が、忘却の底より這い出てて日常の被膜からすっと透け出す瞬間としての殺人の光景。私は『CURE/キュア』に何を見たのかと問われれば、ぼんやりとした記憶でこう答えるかもしれない。
  • ダンカン達の殺し(仕事)は、たいてい女を使って対象に接近しマンションに侵入して実行される。その殺しの描写から(マンションで起こるすべての殺しにおいてカメラはほぼ同位置に固定されている)、たとえば『CURE/キュア』の警官発砲シーンを連想してしまうのだが、近いようでいてまるで違う感触があった。一室で起きることを私はその中で見ている。そこには教室の後ろに立たされたときにみるクラスの景色のような「出来事」への距離があった。「出来事」の中心からは拒絶されているのに、その一部であることからは逃れられないという気持ち悪さ。「殺意」とは別の不定形のおぞましさが、誰かに向ける意思もなく、境界を確かめる自我もなく、ぼんやりとそこに在り、ただれて私を巻き込むのだ。私はその一部であることからは逃れられない。
  • 哀川翔もまたどこかに入り込んでしまってわけも分からず彷徨っているようにみえる。だけどもそれは揺ぎ無く自分の世界として存在している。その自覚ゆえ、彼もまたその一部であるということから逃れられない。
  • 最初の寺島進以外、哀川翔と対峙する者全てが幽霊にしか見えない。いや映画全体がそうで、哀川翔と対峙した場合にそれが顕著にあらわれるのか。奥さんは『叫』小西真奈美みたいだ。ダンカンの部下達は『アカルイミライ』の若者の様だ。ダンカンの女に至っては、哀川翔に銃口を向けられる事によって「殺される」のではなく「ホラー化する」と言ったほうがいい(この辺のバリエーションはすごい)。
  • ダンカンは、普段ぼんやりとしているが哀川翔とサシで話すときだけはいきいきとしててどこか奇妙である。それは川で遊んでて気付いたら深いところにきてしまってて、足場がないので必死に犬掻きしてるような、焦りやうろたえの表れにも見える。はっきりと輪郭を持った者が目の前に現れてこなければ足元ですら混濁したままなのだ。
  • 哀川翔が娘を殺した寺島進に復讐する。その時に哀川翔が「スカイダイブして途中でパラシュートが無いことに気付いて、パニックになって気を失って、目が覚めたときまだ落下途中だったら次何をすればいい?」みたいなことを寺島進に聞くのだが、この映画は、6時間尺のビデオテープで2時間の映画は終わったんだけど後延々4時間の砂嵐をそのまま観続けるようなものとして「失神以後」を映画に呼び込んでしまったのだろうか。