「ちみがそ」の宿題

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『大いなる幻影』黒沢清

 

大いなる幻影 [DVD]

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大いなる幻影』 監督:黒沢清(1999年)

 

何もできずその日を迎えてしまった象徴としての2000年問題と、以後の世界。サッカーのサポーター集団の狂騒、あるいは世界の音。雪の様に花粉が舞い人々はマスクをしている、その日常。1999年の映画だけど、それぞれのイメージが重なっていく光景がとても生々しかった。明らかに現在(今居る世界)と地続きだった。

日本が世界地図から消えている。日本が世界から忘れ去られている。

コピー機は2000年から正常には動いていないし、それを何とかしようとする者も居ない。「どうして誰も何もしないの?」と言った女は退場してしまう(屋上から身を投げる)。

外を出れば花粉が舞っている。まるでゆっくりと腐海に飲まれる様に花粉の飛び交う世界。それは止めようがなく人々はマスクをしている。

花粉に対抗する新薬は副作用として生殖機能を失う。説明の義務さえ果たせばその先の世界は知らないという様な医者の「書いてありますから」という言葉(その先の世界はまさに『トゥモローワールド』だ)。誰もが気付き何もしない、緩やかな終わりの中。

武田真治は若者達の暴力行為を見つめている。彼はそこに何かが生まれ得ると期待していたが、何もなかった。

壊れているのに誰も何もしようとしない。誰も止めようがなく、ただ見つめている。決定的な終わり(=死)から遠ざけられて生きている。

その中で主人公は、恋人の不在を確かめにいく。

同監督の『トウキョウソナタ』(2008年)は、家族の物語だ。後半は逃走で始まる。家族はそれぞれ家族の居る場所から逃走し、やがて行き止まる。母親の小泉今日子は行き着く先の海で、「不在」を見たのではないか。『マッドマックス怒りのデスロード』のフュリオサの再起が「帰路」にある様に、小泉今日子は行き着く果てに「不在」を見つめて、そして「帰路」についたのではないか。塩の湖と、夜の海。砦と、家庭。

大いなる幻影』の主人公も、『トウキョウソナタ』の小泉今日子と同じように、海に行く。そこで恋人の「不在」を確かめにいく。はたして彼女に「帰路」は在ったのだろうか。失われたものを見つけても幻影と共に生きる。何もできずその日を迎えてしまった事の象徴として2000年問題があり、今も「以後の世界」に生きている。明らかに失われてしまっていたとして、それでも私達は幻影と共に生きるのではないか。生きていくのではないか。