「ちみがそ」の宿題

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『猿の惑星:創世記』

 

 

猿の惑星:創世記』 監督:ルパート・ワイアット 出演:ジェームズ・フランコ アンディ・サーキス フリーダ・ピントー 

 

国立公園の木の上から見渡す風景。その世界は、彼の身体の躍動/衝動がどこまでも塞がれることの無い、くらむようなはての無い拡がりに満ちていた。だが見渡すことが意味する世界の拡張には、輝かしさと同時に、小さな世界の消滅という苛烈さとセットでもある。戻ろうとももはやそれは閉じた世界でしかなく、見てしまったことに後戻りは出来ない。この映画でいえば、「見渡せてしまう」位置からは、ある種の立場や、あるいは自覚を生んでしまう。世界は拡がるが同時に、個である限り摩擦は避けられない。世界に対し個であろうとする限りは受容/拒絶を繰り返さざるを得ない。見下ろす行為には、決定的な差異/断絶を自覚する場面でも有り、見下ろす/見上げることの関係性とはつまり決別の瞬間であるとは言えないだろうか。

そこから唯一保護される場所が、幼少に育った屋根裏にある小さな窓越しの世界である。窓越しの世界とは、好奇心を向けても敵意/痛みが返ってこない場所。だが彼の身体/本能はそれがかりそめのホームであることを知っている。何よりそこが終わりが訪れる場所であると教えたのは、先に人間のほうなのだ。人を襲ったシーザーに向けられる人間の眼差し。人間と猿の視線には、わずかだが確かな高低差があった。あるいはシーザーの育て親が見上げる先にシーザーは居たのか。シーザーは木から降りてくる。目線を同じ位置に合わせたのはどっちだろう。盲目だったのはどっちだろう。

シーザーもまた人間でも猿でもない存在であることを思い知るのであり、サル山の上から何を見るのだろうか。猿たちを無理やり進化させ、強引に自分の目線まで引き上げさせることの行為は、傲慢でないと言い切れない。

飼育員との対決は、この映画の前後半を決定的に分かつ中間点として機能している。同じ目線の位置で憎しみを向けあうこのシーンが、映画での最後の「対等」でなかったか。以降、人類と猿の逆転が始まる。研究所のロビーでの見下ろす/見上げる関係に、猿たちのもはや思い直すこともないであろう確固不抜の決別の意思をみる。革命の狼煙、猿たちの闘争が続くのだが、そして猿たちはもう人間と同じ位置で戦ってはくれない。猿が高いところに立ちたがるのではなく、人間が自分の位置から動けないままなのだ。

映画の最後は再び国立公園の木の上のからの風景で閉じる。違うのはシーザーの後ろには仲間が居るということだ。我々は彼らがその光景から何を見ているのかはしらない。だが、同じ位置に立ち並ぶ彼らの背中から、自ずとそれは彼らが対峙すべきもの、より輪郭をはっきりとした「世界」の形、あるいは「人類」の姿が立ち現れてくる。