「ちみがそ」の宿題

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『ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』

 

ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』 監督:ギレルモ・デル・トロ 出演:ロン・パールマン

 

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あらすじ:超常現象捜査防衛局“BPRD”のすご腕エージェント、ヘルボーイロン・パールマン)は、念動発火能力者の恋人リズ(セルマ・ブレア)らと組み、怪事件の捜査と魔物退治にあたっていた。一方そのころ、闇の世界では、地上の支配者となった人間を抹殺すべく、王子ヌアダ(ルーク・ゴス)が伝説の最強軍団ゴールデン・アーミーをよみがえらせようとしていて……。

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(ネタバレ)

 

敵対するエルフ族のヌアダ王子に誘われ、前作同様ダンジョンに入るヘルボーイ達。死の天使とのイベント。ゴールデンアーミーの目覚め。そしてヌアダ王子との決闘を終えてダンジョンの外へと出てくるのが終盤の展開である。ダンジョンに入る前と後、北アイルランドの岩地のロケーションはまったく変わらないが、(図らずも出迎えた形となった人間達に別れを告げて)どこかへ去っていくヘルボーイ達というラストシーンは、それまでのシーンにはなかった異様さを放つ。たとえばそれは、黒沢清『叫』での、役所広司小西真奈美が過ごす時間のヒリヒリとした静寂と、ラストシーンでの荒々しく静んでゆくという別離の間に、もしかしたら見ていたかもしれない光景であるし、『回路』での、もともと別の場所にあったもの同士が融解しだす、1つの場所に2つが存在してしまったことの、かつてと同じ光景であるのにまるで違う世界が眼前に在るという「確信」に近いのかもしれない。
結論から言えばあのラストは、人間達のあずかり知らぬ間にヘルボーイ達に此岸から彼岸にまたがれてしまった、ということを告げるシーンだ。

 

  • 前作と違い、ダンジョンに入っていくメンバーに人間(非能力者)はいない。
  • この映画にはエルフやトロールが登場するのだが、人間に干渉しないように(干渉されないように)違う場所に住んでいるだけであって、人間との間には境界は見受けられない。むしろヘルボーイ達こそがどちらからも外部である、という撮り方をされている。
  • ヘルボーイ達と(ヘルボーイに守られる存在としての)人間達との間にあるものは、多くのエピソードから伝わるが、人間側については何ら掘り下げられていない。前作はヘルボーイの育て親である教授(人間)の視点があり、またキャラクターとして人間の相棒がいた。だが2人は本作では最初から退場しており、一般市民の赤ちゃんを救う場面もあるが、「人間側」を示すものはほとんどがもう「ブラウン管の中」だ。本作においてヘルボーイは人間を「人間側」としてしか見ていない。もしかしたらすでに人間の方向など振り向きもしていなかったのではないか。
  • ヘルボーイの強さはその頑丈さであるとして、王子の強さとはスピードと鋭刃である。だが彼を突き動かすものはその脆さだ。王子は過去=傷を背負うゆえに、はじめて攻撃の対象を得る=強さを獲得する。過去がある限り、それは傷を永続的に背負うことと等しいが、過去こそが彼を動かしている。ヘルボーイが植物の巨人(その種族の最後のひとり)を殺すのを王子が見届けるというのは、とても象徴的だ。王子が誰かに託すとすればそれはヘルボーイが相応しい。あの頑丈さはヘルボーイヘルボーイであることの何だ?王子は死なない限り歩みを止めない。
  • 王子がヘルボーイの胸に槍を突き刺し破片を埋め込むのは、人間とエルフが生きる世界の痛みを共有せよということだ。であるならば死の天使との契り《刃を取り除くが、貴様はヘルボーイと人間とのどんな結末も受け入れれるのか?》は、お前らの痛みを背負わないぜという、人間とエルフが生きる世界との決別を意味するのではないか。
  • 前作からヘルボーイは、敵方に、お前は近い将来人類を滅ぼすだろうと度々告げられている。

 

ヘルボーイと新しい仲間ヨハン・クラウスがロッカールームでケンカするところの楽しさや、エイブ(魚人)の片思いエピソードの切なさや可笑しみ、その他ユニークなギミックの数々。『ヘルボーイ』のキャラクターへの私達の親しみとは裏腹に、映画の関心は実は【ヘルボーイと私達が近づいていくこと】に向いていないのではいか。おそらくデル・トロが見たいものは美しいさよならである。「非なるものが似て」いるからこそ「接近」できるのではなく、「似て非なるもの」だからこそさよならが言えるということ。まるでそんな映画。2つの別々の軌道が近づくとき、その「接近」は隔たりの始まりで、こんにちわの振りしてさよならする。