「ちみがそ」の宿題

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『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』

 

アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(Avengers: Infinity War

 

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ネタバレ。

 

 

18:00の回を観て、映画館を出て時計を確認したらもう9時近かったのでめちゃ驚いた。そんなに経っていたのか。体感としては本当にあっという間だった。飽きさせない密度とスピードというのは、その通りだけど、私達の見知る物語が、過去を持ち寄ることは未来により自由でいる為だと(まるでそう言わんばかりに)、集結し、全ての手続きを圧縮して最大距離を目指した旅のようだった。誰かと出会い、そこからまた当然のように始まることの、幸福と、或いは宿命のようなもの。それは私達が理由を持ってここまで来たからに他ならないのだ。あなたとあなたを私は知っているということ。そして宇宙は一つだということ。いつだってクロスオーバーを待っていた。知っているヒーローの数だけ、私達には理由があったから。宇宙は一つだというなら、ここまで来た理由とヒーローの名前を一つだって失っちゃいない。不要になっちゃいない。抱えきれない理由を持つほどに、あなたとあなたがいつか出会うという想像は容易である。日々を懸命に生きながらただずっと待っていればよかった。それが今日だった。

 

そしてその日はサノスの旅でもあった。最後の場面。どこかの星で、のどかな風景を眺めながらサノスが、まるで長い旅が終わったかのように、ひと息ついている。

 

喪失だった。サノスの到達とは。この映画の結末とは。作為はなく、ただ無慈悲として(彼は慈悲と言う)ランダムに、半分が消失する。サノスによれば宇宙は狭いらしい。だから生命を半分にする。それが達成されたのだということ。ああ。サノス視点からすれば全ては煩わしかったのではないか。あらゆるヒーローがやってくる。なぎ払い、別の場所に行く、再びわらわらとヒーローがやってきて、またなぎ払う。きっといくつもの理由を持ってここに来たのだろう。だが知るほどに煩わしい。宇宙という狭い場所にそれらが数えきれないほど折り重なっていて、取り出せばきっと美しいものも、もはやもう見えないのと同じなのだろう。その全部がこんがらがっていて、ジタバタといつか破滅するだけ。そんな醜さしか見えない。

 

つまりアベンジャーズ(未知と出会うこと、理由が集うこと、それによって争いがあるかもしれないこと、不確定の未来にまだ希望も絶望もあるということ)とサノス(未知を遺棄すること、出会うことも出会ったことも手放してしまうこと、統べること、未来を選んだということ)の映画だった。サノスの脅威があり、だからこそ彼に惹かれてしまうのと同時に、映画にはアベンジャーズのクロスオーバーの魅力が満ち満ちていた。

 

スタークとドクター・ストレンジ

自らの信念と引き受けたものを決して譲ることはない。だけれどネットにはじかれたボールの、その先で、交わることを選ぶ。その高潔と切実。

 

スパイダーマンとピーター・クイル(GotG)。

境遇の違いと、ポップカルチャーの共有。たとえどんな場所にいたって、明日を生きる為に持ち得るもの。

 

ソーとグルート。

真剣に生きることの迷いの無さと、その意味。若者にとってそれは世界が示してくれなければ分からないということ。

 

他にも、ソーとピーター・クイルの張り合いや、ドラックスと社長との異次元の交流、スターバックスやオリンピック誘致じゃないワカンダの集結。どんな危機だって変わらないオコエの気高さ(今日がワガンダ最後の日かも...みたいな言葉に「ならば今日を誇り高い死にしよう」的な返し、めちゃくちゃかっこよかった)、ブラック・ウィドウの不敵さと、ハルクじゃないブルース・バナーの頼りなさの「いつもの面々」。クロスオーバーのあらゆる楽しさよ。

 

サノスという巨大さと、だからこそのたった一つの脅威と結論に、対になるものとして、アベンジャーズの多様と複雑と、どうしたって一つに染まりはしないことの強さがあるのではないか。「あった」のではないか。

 

そう、確かにそれは今日までは「あった」のだ。明日にはどうなるかを私達はまだ知らない。