「ちみがそ」の宿題

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『桐島、部活やめるってよ』

 

桐島、部活やめるってよ

 

監督:吉田大八 出演:神木隆之介 橋本愛 大後寿々花 東出昌大 松岡茉優

 

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(ネタバレ)


登場人物すべてが何かしらの切実さを抱えており、普段それは誰かに向けられるものではなく、というよりも常に回避され隠されるべきものであり、しかし映画は、それぞれの切実が外に向いてしまう瞬間を、周到に適切なタイミングで用意している。その瞬間が見せるのは、切実さは外に向けた途端、敵意に近いような歪なものになるということ。

学校という環境が特別であるから起こるわけではなく、切実さはどんなときだって普遍的に持ち得るものであり、この映画に対し、自分の高校の話とか、あの頃はどうだとかいう話は、あまり言いたくはないなと思う。それは、過去は常に無自覚であった時が大半であるような気がするし、10代なんて圧倒的にそうであったはずだし、その曖昧な空間を、映画が隙間を埋めるように浸食して、思い出はいつも虚構であることの脅威があるから。あるいは登場人物たちへの共感は、彼らへの不誠実さである気がしてならない。あるあるとか絶対言ってやるかっていう。彼らの行動は、観る者の誰かにとってはリアルかもしれないけど、誰かの「いつか」のトレースだったら、彼らはいったいどこに居るんだっていう。そう思わせるような切実さが、吐き出せば不協和しか生み出さないかのようなそれが、映画の中に確かにあり、ぐらぐらと不安定な彼らの場所/関係性と共に描き出されていくのだ。

そして重要なのが、この映画の「視点」である気がする。登場人物たちが、持ち得ることのない視点。この映画のクライマックスはどこだろうと考えたとき、それはその視点と対峙したときではないだろうか。神木くんのカメラが映す先は、彼の主観であり、切実さそのものだ。だが神木くんから宏樹に向けられる時。手持ちの8ミリカメラに宿るそれは、レンズの向こうのそれは何なのか。神木くんから宏樹への視線は、カメラを介することで、すでに神木くんの視点では無くなっているのではないか。たとえば冒頭、桐島の彼女が歩く姿を高所から捉えた場面のような、そこに宿るのは、映画が終始持ち得ていた視点ではないのか。宏樹はその視点と対峙させられる。それは、自身の切実さに無自覚であろうとし続けた彼の正体を暴くのだ。

桐島の不在とはつまり、「終わり」であり「終わってしまった」ことそのものについてなんだろう。はじめに終わりがあり、それをごまかし続け足掻く人間と、最初から終わりであることを知ってしまった人間の物語。残酷だけど、きりきりと確実に、ゆっくりと人を殺すことの美しさがラストシーンであり、それだけでもこの映画を価値あるものにしている。

けれども死んでも生き続けなきゃならない、それは自明のことなんだよ。

 

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桐島、部活やめるってよ

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