『マッドマックス 怒りのデス・ロード』
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(原題:Mad Max: Fury Road)
監督: ジョージ・ミラー 出演:トム・ハーディ、 シャーリーズ・セロン、ニコラス・ホルト
あらすじ <allcinema>
石油も水も尽きかけ荒廃した世界。愛する家族を守れなかったトラウマを抱え、本能だけで生き長らえている元警官、マックス。ある日、資源を独占し、一帯を支配する独裁者イモータン・ジョー率いるカルト的戦闘軍団に捕まり、彼らの“輸血袋”として利用される。そんな中、ジョーの右腕だった女戦士フュリオサが反旗を翻し、ジョーに囚われていた5人の妻を助け出すと、彼女たちを引き連れ逃亡を企てたのだった。裏切りに怒り狂うジョーは、大量の車両と武器を従え、容赦ない追跡を開始する。いまだ囚われの身のマックスもまた、この狂気の追跡劇に否応なく巻き込まれていくのだったが…。
人間をモノとして扱う行為が、荒廃した世界で生き抜く為の合理的な方法であるならば。
私の知る現在のこの世界もまた「合理的」だったのではないのか。
「求める機能以外を発揮するな」と言ってしまえるのは、はたしてイモータン・ジョーの支配だけか。
モノからの逸脱こそが生の獲得だった。この映画はまさしく現在の物語でもある。
フュリオサ(シャーリーズ・セロン)
幼少期にさらわれ、ジョーの子産み女となり、幾度も逃亡を図るも失敗、おそらくそのせいで片腕を失う。その後はジョーの配下の大隊長として戦闘集団ウォーボーイズを引き連れるまでになっていたが、ずっと内には怒りを秘めていたのだろう、20年に及ぶ願いを果たすべく、幽閉されていたジョーの妻達と共に故郷「緑の地」を目指す。
原題であるFury Road(直訳:怒りの道)とは何か。誰の道か。分からないが、どんな困難であっても、(自分だけではない)どれだけ多くの祈りをその身に抱えていても、彼女は強く踏み出すことが出来る。突き進むことをおそれずに続けられる。その強い意思。20年間絶えることなかった怒りと共に。そう、これはきっと彼女の道。彼女の物語である。
マックス(トム・ハーディ)
物語冒頭でいきなり捕まる。主人公であり、ウォーボーイズの「輸血袋」。ジョーを裏切ったフュリオサを追う為に駆り出されるウォーボーイズ達の「モノ」として、たまたまフュリオサ達の旅に出会ってしまう。半分は巻き込まれだけど、やがて自らの意思と生き抜く強さで、フュリオサを導いていく。
彼は自らの過去に起きた何かによって、亡霊にとらわれている(幻覚を見ている)。詳細は分からないが、彼からフュリオサへの「希望は持つな、心が壊れた先にあるのは狂気だけだ」という言葉から、彼がかつて生き抜く以外の願いを持っていたことが分かる。フュリオサを導くことが、自らの何かを取り戻すことでもあるという、これは彼の旅でもあった。
始まり:ウォー・タンクと共に出発
ガスタウンへと向かう取引当日。「緑の地」を目指す逃亡計画。フュリオサが初めて登場するシーンは、大隊長として現れる。堂々たる戦士としての後ろ姿で。そして首元にはジョーの焼印。この場面のフュリオサが素晴らしい。きっともうここから絶対に折れることはないと「決まって」いたのだ。向けられる暴力に怯まず進み、向けられる祈りに押し潰されて立ち止まることもしない。打ち砕かれ傷付いた心はあるが、対峙するものに決して内側はみせない。不確実な未来に絶望もしない。選択肢と燃料がある限り、求め続ける。
事の起こりも、始まりの怒りも、混沌の中にあってもはやそれだけを取り出す事は出来ない。もう既に「始まった」世界で、覚悟も過去も装填済みなのがフュリオサなのだ。物語はいつも途中。映画は唐突でいい、世界がそうであるように。
或いは、モノであることの信仰の有無がウォーボーイズとジョーの妻たちの違いならば、生存の対価としてモノであったはずの幼きフュリオサは、どのようにして大隊長になったのだろうか。そこには見えない物語がある。止まることのないウォー・タンク。もしかしたらアクションとは「見えない物語」を運んでくるものではないか。
折り返し:静寂の夜
フュリオサとマックスの共闘、そしてウォーボーイズだったニュークスも仲間に加わり、なんとかジョー達の追手から逃れることができる。そしてフュリオサの故郷の仲間である「鉄馬の女」達と出会う。故郷「緑の地」はすでに失われていた。フュリオサの咆哮。それぞれの夜。
約束の地はなかった。それでもフュリオサは、その日の夜に、次に何をすべきかを決意してみせる。誰かの決死を多く抱えて、何も果たされず虫ケラの様に死なせてしまうかもしれないのに、荒野を渡ることなど出来るのだろうか。変わることのない過去達がいつだって未来を塞いで見えなくしている。それでも彼女は迷いなく決意する。まるで私達が手放してしまったものが、まだ彼女の中にはあるように。かつての逃亡の失敗のあとにも、幾つもの夜が訪れたように。それは静寂の夜の如く、何度だって。
再び:イモ―タン・ジョーの砦へ
「緑の地」は失われていた。さらに遠く塩の湖を超えて、生きていける大地を探す。あてのない旅に向かおうとするフュリオサに対しマックスは、あなたの故郷はここだとジョーの砦を指す。砦の奪取こそが、行くべき道。まるで黒沢清『トウキョウソナタ』(2008年)で、母親の小泉今日子が逃亡の先の海で「不在」を見たように。塩の湖と夜の海。砦と家庭。行き着く果てに「不在」を見つめて、行くべき道は「帰路」であると知る。
来た道を戻る。ジョーの部隊が襲い掛かる。それぞれの決死。フュリオサは傷を負う。仲間のひとりは奪われ、エンジンは壊れかけている。絶体絶命の中でフュリオサは「見る」のだ。それは状況の把握でもあるが、きっと自らが背負っているもの、手にしているものを見つめる為に。ゆっくりと。眼差しの先。彼女はそのひとつひとつを確かめ、屈することの無い力を再び点す。決して手放しはしない怒りと共に。
帰還:終わりと始まり
お前を殺そうとするもの、お前を従わせようとするものに立ち向かえる力とは何か。全てを削ぎ落とされて、それでも残る力の根源とは何か。モノであることからの帰還。きっとこのラストシーンの先にあるのは、新たな苦しみだろう。資源、統治、外敵。だが当然だ。アルフォンソ・キュアロン『ゼロ・グラビティ』のように、これは「始まり」に帰還する映画なのだから。 フュリオサや妻たちは「始まり」に帰還する。あるいはニュータスもそうかもしれない。モノから逸脱し、生を獲得するまでの旅。
はたしてフュリオサはあの砦を統治できるのだろうか。どんな未来だって考えられる。だけどサンドラ・ブロックが大地を踏みしめた時「この先もツライかもよ」なんて言う奴はいない。私達はいつだって未来に恐怖している。それは当然のことである。
この世界で
イモータン・ジョーの世界(確定的で、使命を得る=答えがある場所)と、フュリオサの世界(不確定で、欲望を持つ=答えの無い場所)の間を行き来し、絶えず揺れていたのがマックスとニュークス。イモータン・ジョーの世界を殺して(否定して)、はじめてマックスは自分の名を告げることができたのではないか。
母の前で産声を上げるように。ケイパブルを見つめて「俺を見ろ」と言うニュークス。フュリオサに自分の名前を告げるマックス。あるいは母達とは新しい世界で、男達とはそこに生きる者達の事かもしれない。どんな場所に生まれ落ちても、俺は生まれたと私達は叫べるのだ。