「ちみがそ」の宿題

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『ダークナイト ライジング』

 

 

ダークナイト ライジング』

監督:クリストファー・ノーラン 出演:クリスチャン・ベール トム・ハーディ アン・ハサウェイ ジョセフ・ゴードン=レヴィット

 

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ベインの彼自身のマッチョさやそれまでの犯罪行為のシンプルな暴力性が、禍たらんとする清廉な悪意と、それが在ろうとするべき強靭さを見れたのだけど、スタジアム入場前の廊下で出番を待つ彼の、待つこと/確認することの僅かな時間・秩序に、(これはオチがわかってからの後付けかもしれないが)体現者ではなく遂行者としての憂いをみた気がした。それがとても色気があったのだ。ジョーカーの、世界を演じなければならないその絶望的なまでの渇きではなく、少し甘ったるい感触ではあったけれど。

やはりこの映画のピークは、予告編にもあったフィールドが落っこちて、ベインが科学者をポキッとやるとこまでだろう。『ダークナイト』がジョーカーが警察署を脱走するまでがピークだったように。同様に、オープニングが最高であるし。しかしながら、ゴッサム占拠からの流れは、あんまし良くない。あの流れで連想できる絶対見たい描写がことごとく微妙という。

だけども後半は、全体を多少犠牲にしても「バットマンが帰ってくること」の物語に重きを置いたんではないだろうか。3作のうち、作品自体は別にしてどのバットマンが好きかと言われれば、今作と答えるかも知れない。それは遂に今作でバットマンが、単なるシルエットの存在になりえたから。やっとブルース・ウェインの存在から切り離されたといっていい。これまでのゴッサムにあらわれる黒い影は、街の人間からすれば自警団気取りの犯罪者、あるいはスクリーンから見れば、黒の下に苦悩を隠す者であったはずだ。つまりは、黒を纏う「何か」は、「何か」であるからこそ重力のような逃れ得ない鈍重さを持たざるをえないのである。だがライジング終盤でのバットマンの、神出鬼没で好き勝手に飛び回る姿はどうだろう。その姿は、前作と変わらないはずなのに、あらゆる呪縛から解き放たれたかのように自由に見える。またはアクションシーンにおいても、まるでガジェット初登場時の「こいつが派手に動くことこそが正義」の方式が変わらず採用されているかのような、あるいは無数のパトカーを引き連れてしまった事体にどこか嬉々としているような身軽さで、終盤のそれは迷いなく吹っ切れている。(ご都合主義で勢いだけのアクション映画と揶揄されてしまうだけのものかもしれないが。)

キャットウーマンや熱血刑事のそれぞれに、シルエットは何を写すだろう。シルエットに何をみるのだろう。ブルース・ウェインもまた離れてはじめて、それと対峙できるのだ。「ヒーローがあらわれること」の超越性はこれまで(というより常に)、秩序は崩壊しうること/恐怖は否応無く訪れることの裏返しであったし、ブルース・ウェインバットマン自身がその事にとらわれていたのである。今作で「ヒーローがあらわれること」の事実性が、誰かの意志を試すもの、あるいは素直に見る者の希望に繋がっている事がうれしい。それには何よりもここまでの、これほどの過程が必要だったのである。ブルース・ウェインはようやく救われたのかもしれない。

 

 

 


The Dark Knight Rises - Official Trailer #2 [HD]