「ちみがそ」の宿題

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『ハンナ』

 

『ハンナ』

監督:ジョー・ライト 出演: シアーシャ・ローナン エリック・バナ ケイト・ブランシェット

 

 

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元CIA工作員の父にフィンランドの山奥で人知れず育てられた16歳の少女、ハンナ。幼い頃から格闘技をはじめあらゆる戦闘テクニックを叩き込まれ、ついにその戦闘能力は父をも凌ぐまでになっていた。そして、父のもとから旅立つことを決意したハンナ。父はそんな娘に、かつての同僚であるCIA捜査官マリッサに命を狙われる、“彼女に殺されるか、お前が殺すかだ”と忠告するのだが…。
<allcinema>


少女ハンナは、フィンランドの雪山で父親と暮らし、外界と関わることはない。殺人のプロとして育てられたハンナの日常は、狩猟やトレーニングが主だ。そこには静寂と、あるいは極めてシンプルな生活音しかない。また彼女にとって「音楽」とは本の知識でしかなく、いつか「音楽」に触れることを夢見ている。

音楽とは何か。組織された音。美しい和合。ときに感情を表現するもの。彼女は逃亡先ではじめて音楽に出会う。だが彼女が出会ったのはそれだけではない。街の喧騒の猥雑さもまた彼女がはじめて体験する「音」であった。文明が創り出した騒音にパニックとなり逃げ出す描写もあるが、特徴付けするまでもなく、雑踏に溶け込み掻き消されるはずの音が、クリアにひとつの音として自然と耳に残るような作りとなっている。これはおそらくもう一度観ないと確信は持てないのだが、そうした音が引き連れてくるようにして劇中音楽が重なってくるのである。雑踏の中に耳を澄ましていると、散在する独立して生まれたはずの音と音が組み合わさって「音楽」になるような錯覚といえば大袈裟すぎるが、それに近づこうとする意図を感じた。本の知識としての「音楽」には、喧騒やその他の騒音とを区切る確かな線引きがある。だが彼女の体験としてのそれに、はっきりと線を引けるだろうか。

喧騒を再構築せよ。彼女を知るには、雑踏に溺れて世界(音)を泳げよ。出来ないのならば、俺はハンナの何を知っているというのか。我々が捉えようとした彼女の表層は、単に見たいものを見ただけである。あるいは父親以外の人間に触れ世界を体験する彼女のさまざまな変化から彼女の内面を読み取るとき、我々にとって都合のいい誘導が行われていただけではないのか。誰もハンナを知れない。

ラストシーンの反復が決定的であるのだが、他でも、父親やアメリカ人の旅行一家とのやり取りの中に、思い返してみるとその行為や台詞の至る所に微かな違和感の残していたことがわかる。彼女の友情をありがとうという言葉は、友情というものが関係性ではなく、命を奪うことによって糧を得る彼女のこれまでの生き方と地続きの感覚として、例えば食料と等価であるようなものとして捉えているのではないか。

また父親や様々な人に助けられて彼女は追っ手から逃れられるのだが、彼女は、残された人々の行く末についての想像力が希薄ではなかったか。必死であるがゆえ思考が及ばないというのは当然かもしれないが、それ以上に、彼女は自分の後方に在るものに対しての感情が欠如しているように思える。彼女は、本能あるいは彼女の特殊な能力として、父親の死の瞬間を感じ取ったのかもしれないが、だがそこにわかり易い感情は読み取れなかった。ハンナとはいったい何者なのか。

父親は知りたい世界の一部だけしか与えてくれなかったので、彼女は勝手に走り去っていった。そんな単純な一文で完結してしまってもいい。彼女は自分のことを我々に容易には教えてくれないのだ。誰もハンナを知れない。

少女はタフだし、大人はずっと分からないままである。