「ちみがそ」の宿題

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『イングロリアス・バスターズ』

 

 

イングロリアス・バスターズ

監督:クエンティン・タランティーノ

 

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その人が行くところに必ず殺人事件が起きるのが名探偵であるのならば、事件が起きるその場所に最初から最後まで居続ける人間もまた、名探偵で無いとは言い切れないだろう。死を運ぶ名探偵が必ずしも途中参加とは限らない。これから殺人が起きることを回避できない。つまり運命として殺人が起きることを「知って」いる者。ユダヤ・ハンターことランダ大佐もまた、その意味では名探偵ではないか。

いや彼だけじゃない。この映画であれば、名探偵が語り出さなければ殺人は現前しないように、暴力の到達を望む者達。殺しの光景までの過程。辿り着く為の全てを見せる映画そのもの。たとえば冒頭や中盤のスリリングな会話劇。或いは登場時の長いタメによってより深く印象付けられるイーライ・ロスのフルスイング。

では名探偵が立ち入ることができない殺人とは何であろうか。名探偵たちが知ることのできない殺人とは。おそらくそれは、人から生まれ、人から離れてしまった「殺人」である。

最終章。プレミア上映の夜。まさにクライマックスであるのだが、奇妙なことに、プレミア作戦を画策する者、その計画を知り阻止しようとする者、プレミア作戦に「意志」を持つ者はすべて途中退場している。ショシャナ(メラニー・ロラン)は直前で死んでしまうし、ブラッド・ピットは作戦決行の前に捕らえられ、別の場所に移されている。しかも邪魔するべきのランダ大佐は、作戦を知りながらも見過ごし、別のものに興味を移行させているのである。作戦実行者であるイーライ・ロスともう一人は、ブラッド・ピットを失うも自動で動く傀儡のようで、或いはまるで「前景化してきたモブ」の佇まいで(だがそこがひたすらにかっこいい)、またもうひとつの実行者である黒人男性は、少なくとも作戦に対する能動的意志は見られないし、恋人であるショシャナとの関係性だけで動いているように見える。何より彼を動かす合図は、「人」無き「フィルム」なのである。つまりショシャナとブラッド・ピットが放った傀儡のみが、皆殺しの光景を作り出しているのだ。

そこには狂騒に身を委ねるような快楽も、るつぼの中で死んでいく者達の無残さも無い。燃やせよ破壊せよと人無き者の声がただ響くだけ。そこでは「人」を置いて、ただ「皆殺し」が進む。

名探偵が立ち入ることができない殺人とは何であろうか。あるいは立ち入らない。名探偵が介入できない殺人とは。人の思考では及ばない場所(それは狂気でも乗り越えられない)、人という身体で運ぶには到底遂行できない場所、それはフィルムという不可逆性でもって始めてたどり着ける場所なのだという想像は容易い。実際には良くわからない。ただ下方から燃え散っていくスクリーンに映し出されるショシャナの悲しき高笑いは、永遠の時間を持ってしても、決して我々の手元へ収まることは無いのではないか。あの光景を、名探偵が知ったふうに語りだすことの出来ないように。