「ちみがそ」の宿題

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『グラン・トリノ』

 

グラン・トリノ

監督:クリント・イーストウッド

 

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劇中において、イーストウッドグラン・トリノを大事にするも、乗車したり実際に走るシーンがないのと同じような理由で、「殺し」が在り、「殺し」に憧れを持つも、「実行はされない」のではないか。グラン・トリノを見て、久しぶりにピカピカした車をかっこいいと思ったけど、「殺し」というのもそれだけ魅力的なものかもしれない。行為そのものの快楽といった意味ではなく、未来にひとつ多く可能性を与える行為として。だが、実際に「殺す」は行われないのだ。倫理の問題でも、宗教でもなく、ましては社会的制裁が待つからでもなく、RPGで言うところの「こうげき」「まほう」のような、ただ選択肢としての「殺す」が立ち行かなくなっている、その選択の先に未来の何も想像できないということ。「殺し」という手段は常にあっても「殺す」ことで選択される未来がまるで見えない、時として拠り所となる「殺す」がその有効性を失ってしまったのではないだろうか。「報復の連鎖」「暴力の歴史」が決して断ち切られないのは、何よりも「殺し」が有効であったから。だけどそれが永劫続くとは思えない。「殺し」を有効に思えない、複雑さの中に、或いは新しい時代に、足を踏み入れてるのではないか。そしてイーストウッドはそれに気付きながらも、何ら抗う(納得を持って向き合う)方法を見つけ出せていないように思う。例えば、行き場の無い窮屈さをまるで意に介さないようなモン族一家のたくましさや図太さ、錆びた街を歩く少年タオとチンピラ車の「遭遇し」「捕食される」しかないという生活圏の薄暗い堅牢さ、少年タオを絡め取ってそのまま引きずり込むような街路からの光景の無感動さ、それらのシーンのずっしりと映画に根付くようなリアリティ(私たちがいる場所の逃れ難い感触)を、クライマックスであるイーストウッドのあの行動からは感じることができなかったからだ。どこかそのシーンだけ現実感が無かった、まるで神の行いのような、後になって「あれは本当に起きたんだろうか」という幻想の、ある種の希薄さを持っていたように思う。私はその後駆けつけるタオと姉スーの表情と、それを確かめる若い神父の顔にこそ惹かれてしまう。それこそがあの街から生まれて、これからを覚悟させられるものであるから。

イーストウッドグラン・トリノに何故乗れないかは、もちろんそれが有効ではないから。では少年タオに引き継がれ、乗り手を手に入れたグラン・トリノは何を示すのか。これもまた老人の夢のように希薄であった。そう、すでに終わってるけど、これで終わりではないのではないか。

 

 

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