「ちみがそ」の宿題

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『カリスマ』黒沢清

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黒沢清の『カリスマ』を久しぶりにみた。国内外問わず近年の映画で面白いなと思った部分が、途中さらっと放り込まれてたりするので驚く。特に吉田大八監督の『桐島、部活やめるってよ』と似ていた。

 『カリスマ』と『桐島~』の共通点。『カリスマ』は森から出られない、『桐島~』は学校から逃げられない。一方は外の世界が切り離されており、一方は学校の延長に世界がある。「カリスマの木」と「桐島」という、世界に意味を与える存在(と信じられるもの)を奪い合う物語。マクガフィン的性質。各勢力の間を横断する役所広司と宏樹(東出昌大)の存在。そしてラストの構図。携帯電話と、役所と宏樹が何かを見つめる姿。

『桐島~』ラストでの宏樹が見る光景。意味を見出せなかった世界が、残酷なまでに鮮烈に映し出される。『カリスマ』ラストでの燃え上がる世界。それは在るべき姿であり、世界はそれを取り戻したのだ、というような役所広司の眼差し。  

森の法則が役所広司を通じて伝染し世界の法則は回復したのだろうか。『カリスマ』では、役所の介入こそが世界を変容させたのではないかと捉えることができる。『桐島~』では、宏樹の気付きこそが旅の終着だった。前田(神木隆之介)の「俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだから」という言葉があるように、はじめから桐島が不在であるということが、世界のありようそのものだった。

 

カリスマ [DVD]

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桐島、部活やめるってよ

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『インターステラー』 クリストファー・ノーラン

 

 

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 『インターステラークリストファー・ノーラン

 

 

微かな希望を手に宇宙を旅する父親。f:id:sportmax06:20141124230759j:plain彼に立ち塞がる数々の嘘や過ちは、希望がへし折れた跡。お前を殺すかもしれない鋭利な残骸。未来を覆い隠す漂流物。だがそれでも可能性は残されているのだ。彼と同じ希望を持っていたはずの無数の誰かは行き止まってしまったが、彼はまだ試すことができる。ゆえに彼は試行する。試行し続けたその果て。

地球で父親を待つ娘。彼女が絶えず持ち続けたもの。未来とは一方通行のシグナルであり、受け取るには意志が必要なのだろう。「起きうることは全て起きる」のであれば、起きうる全てを信じなければ見失ってしまうものなのかもしれない。ゆえに彼女は全てを仮定する。信じ続けたその果て。

遥か遠く離れていたはずの二つが、想いの果てに出会うのだ。誰かを想い届けようとする事と、誰かを信じ受け取ろうとする事の、その果てにあるファンタジー。あるいは冒頭、かつてどこかの国のものだった彷徨う無人飛行機を発見し、家族が車で追いかける。車は畑に突っ込み作物をなぎ倒し進む。その眼差しと、目標に向かい全てにぶつかりながら止まらず突き進むこと。もしかしたらこの映画はそこから続く物語であり、いまだ途中であるのかもしれない。終わりではない。いまだ未来は待つ。彼は「ノスタルジーは慣れない」と言った。

 

 

インターステラー(字幕版)

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インターステラー - Wikipedia

2015-04-30 - イン殺 - xx

道重さゆみ 『シャバダバ ドゥ~』

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彼女が見せてくれた物語。

あるいは私が目にした幻想かもしれない物語。

あるいは私達が見たい幻想の中に、道重さゆみという人がいたのかもしれないということ。
 

 

 

道重さゆみ」という人。


私は、道重さんのモーニング娘。としての12年間をずっと見ていたわけではない。もちろん過去にもTVで何度か見たことあるし、検索すれば(真実ではないかもしれない)彼女の歴史はいくらでも見つけることは出来るけど。私がリアルタイムで見たのは、2013年以降の道重さんだけ。だけどこの2年間だけの私にも、彼女は様々なものを伝えてくれた。

 

モーニング娘。に何を捧げてきたのか、それによって彼女は何をすり減らしてきたのか。

彼女にとって何が支えになっていたのか。

どんな別の人生を想像してみたのか。

仕事を終え彼女が還る場所に何があるのか、それがどんなに大切なものであるのか。

 

リーダーという立場に不安を隠さなかったこと。

それでもリーダーでありたいと思うこと。

どんなリーダーであるべきかをずっと考えてきたこと。

モーニング娘。が大好きであること。

 

それらを飾らずにありのままに語ってくれたこと。

 

 

 

彼女が語ってくれた全て。前を向くだけじゃない、完璧ではない、彼女の全て。それは一人のアイドルとしての物語に綻びを生むものではない。反対にそれは、物語世界にディテールを与えるように、この幻想をより強固してくれるものであった。なぜなら彼女が語るそれらは、モーニング娘。としてステージで輝きたいという想いに全て繋がっているから。これまでに注いできた全てを、あるいは全身全霊の今この瞬間を、その姿形だけじゃない人生そのものような美しさを、彼女はライブパフォーマンスを通じて体現してくれていたから。道重さんは美しい形を持った人だけど、その真髄はやはりモーニング娘。であることなんだと思う。留めておける美しさよりもずっと完全なものがステージにはあって、彼女のこれまでの全てはこの瞬間の為にあったんだと思えるような。己が立つべきだと思う場所で、人は最も輝けるんだということを彼女から教えてもらった。その為に何をしないといけないのかということも。

 

 

ラストシングル『シャバダバ ドゥ〜

 

人はなぜ物語を求めるのだろう。たぶん人生そのままの重さを抱えることは誰も出来ないから、何かに替えて語ってくれるものを求めるからではないか。『シャバダバドゥ〜』には、圧縮された時間と、モーニング娘。としての彼女の物語の完結を感じる。だけどそこには年月の重さから解き放たれたような軽さもある。そしてその軽さがあるからこそ、彼女の物語を語るものとして最も相応しい歌だと思えた。
アイドルという理想と、一人の人間が生きる現実はやはり違う。当然道重さんは人間であるから、いつかはマイクを置かないといけないし、大人だからこの物語の終わりをちゃんと告げなければいけない。だけどきっと理想のアイドルの終わりは、何も変わらず何も終わらせず、私達の前を軽快に走り去ってそのまま消えていくことなんだと思う。『シャバダバドゥ〜』とは多分その二つが重なる場所。彼女はこの長い道のりにおいて、「ありのままの自分」も「理想の中の自分」も何一つ見捨てずに、全部を引き連れてここまで来たのだ。ゆっくりとだけど、それ以外のやり方を知らないかの様な折れない強さで。その全ての結実がここにある。彼女の人生の中のひとつの物語が終わる。この完璧なラストと共に。
 
 
卒業とこれから。


大切な全ての過去を持ち寄ったって、どんな未来になるかわからない。振り返っても、過去が今だった頃の過去はない。ただ精一杯の今があるだけ。 

道重さんよりも少しだけ多く生きてきた私が思うのは(あなたも感じているかもしれないが)、自分を裏切るのはいつだって他ならぬ自分だったということ。好きなものがいつの間にか好きでなくなること。道重さんは色んな才能と幸運を持った人であるけど、一番は「好きなものを好きなまま」でいることの才能じゃないだろうか。そして「好きなまま」でずっと続けていく為には、何より自分を変えないといけないということに最も自覚的な人だった。この世界に好きなものがあって、ずっと夢中になれて、苦労も厭わなくて、その為なら他のどんなことも我慢できて。そして同じ夢を見てくれる人達がたくさんいる。そんな当たり前のこと。道重さんの美しい生き方が教えてくれたのは、この世界は素晴らしいんだっていう当たり前のこと。

今はまだ寂しい。道重さんが見てきたものを同じように全部見ていたかった。「恩返ししたい」と言った彼女は今まで何を与えられてきたのか。「頼もしくなった」と言った彼女は後輩達のどんな姿を観てきたのか。それはきっとかけがえの無い素晴らしいもの。

今は悲しいけど、彼女を全てを知るには、これからのモーニング娘。を見続ければいい。きっとこれから見る光景に、道重さんの夢の続きがあると思うから。

 

 

 

 

 

あまりにも素晴らしい『道重さゆみの卒業』 - NAVER まとめ

 

 

 

 

 

『普通、アイドル10年やってらんないでしょ!?』 Berryz工房

 

 


Berryz工房 『普通、アイドル10年やってらんないでしょ!?』 (Promotion edit ...

 

Berryz工房『普通、 アイドル10年やってらんないでしょ!?』についてのメモ。

 

誰かが歌わなければならなかったような、あるいはいつか彼女達が歌わなければならなかったのかもしれない曲。何故か分からないけど、ついに始まったという感触がある。 今まで誰もいなかった場所に、在るべき者が帰還するような、何かが始まる予感。

 

自分達が生きてきたことに人の言葉は借りないし、自分達を示す言葉は明確で、証は歴然とそこにあるという事の幸福と覚悟。そしてその場所から見つめる先はやはり愛なのだという確信。

 

なんでこんなに良い曲なんだろう。この歌詞でなければならないという確信がもう初回であって、もう見届けるしかないよという気持ち。

 

「それでもほら もうすぐ幕が開く」って歌詞をこんなにもカッコ良く歌えるの他にいるの?というような。動機なんかとっくに過去の遠い場所にあって、この先に何があるかも分からないけど、「アイドル10年やっちまったんだよ!」と。

 

熊井ちゃんの「石の上でさえ3年だよ」のところ、本当に優しく歌ってくれるんだけど、それでも迫ってくる何かがやはりあって、この重みは簡単には語れないんだとあらためて感じる。 

 

別の人生を想いながら、長い年月を噛み締めながら、少しの感傷と過去を携えて彼女達は歌うのだけど、続ける「理由」を過去ではなく今この瞬間に求めていることにぐっとくる。だからこそ彼女達は最高にかっこいい。

 

過去があるから今突き進める理由を持てているのではない。振り返ったらいつの間にか前人未到の場所にいて、それは自分達の誇りであるけど、だけどもそれはこの歩みを止めない理由じゃない。「理由」を求めるのは今この瞬間であること。

 

間奏あけ(落ちサビ)の嗣永熊井のパート。歌い方は対照的なんだけどどちらもまさに彼女達の生き方そのもののようで、貫いてきた者の不変さ(嗣永)と、生身の人間としての可変さ(熊井)を見てしまう。特に熊井の「青春全部捧げて〜」は力強くてぐっとくる。 

 

もう一度だけど、過去は理由じゃない。振り返ったら見える景色は自分達の誇りであるけど、だけどもこの歩みを止めない理由にはならない。理由を求めるのは今この瞬間であること。この道が正しいかは分からないけど、それは今日も自分を裏切らなかった。 「それでもやっぱ歌えば官軍」 彼女達は幸福なんだと思える。

 

そしてアウトロの可笑しみと微かな不穏さ。一転してコンテニューしますか?の時の音みたいになって、結局しないのかよって感じで終わっちゃう。そこには、ひとつの時代の終幕というより、今回もまたループから抜け出せなかった的なビターエンドのくたびれ感がある。少しの気だるさと共に彼女達の物語は続く。

 

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ズッキ。

 

 

ズッキ。

 

在りたい理想と現実のギャップ。理想は途方もないもので、見上げるだけで挫折してしまいそうなのに、同期のエースは迷いなくその道の先を見つめている。自分だったらとっくに目標を下方修正してて、もっともな言葉で自分で自分を騙して、取り繕っているところ。

そして彼女(鈴木香音)も一見、当初のルートを逸れて独自の道を進んでいるように見える。

だけどもそれは最短ルートではないだけなのかもしれない。たとえそれが回り道であったとしても、加入にしたその時に抱いていたであろう情熱からは、彼女はこれまでもこれからも実は一度も視線を逸らしたことなど無いんじゃないかと思わされてしまう。彼女の活躍を見ていると。

「実はそれを未だに隠し持っている」どころじゃない、逃げも隠れもしない最初と同じ揺るぎない夢。

普通の女の子なら経験しなくていいようなつらい事もあったろうし、悩んでいた時期もあるだろう。それすらも大局で見れば、後退も立ち止まりもしていないんだと思わさせてくれる。強さとは何だろうと考えたとき、この答えは範馬勇次郎に「不純だ」と怒られそうだけど、彼女の中に「強さ」というものを見た気がする。

今が決して最善手であるとは思えないし、いつでも最良の手を打てるわけじゃない。だけども遥か先に向かって、有効な手ではなくてもたとえ悪手であっても、ひたすらに「最善であると願って」打つ手であること。なげやりではなく、目先の有効性にとらわれることが愚かであると思えるほど、それは「決して負けない」姿勢。強さとはなんだろう。

道重さんから聞く、ズッキが加入当時のダンスレッスンでひとりだけ出来ていなくて、泣きながら必死にダンスについていった話は、努力してきた人間なら当たり前にあるような話かもしれないけど、何故か泣けてくる。勇気が出てくる。

あれから変わっていったことはたくさんあるだろうけど、変わらなかったこともきっとある。

 

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『大人なのよ!/1億3千万総ダイエット王国』 Berryz工房

 

Berryz工房『大人なのよ!/1億3千万総ダイエット王国』 の感想。 

 


Berryz工房『大人なのよ!』 - YouTube


Berryz工房『1億3千万総ダイエット王国』Berryz Kobo[130 million Diet ...

 

『大人なのよ!

Berryz工房ほど、知った風な大人達の視線の、このままでいいの?この先どうするの?って空気に晒され続けてきた女の子もそういないと思う。

彼氏にはどんなタイプがいいか

そんなの私に押し付けないで

好きになった人が好きよ

付き合うのは私なの

サビの歌詞が刺さるのは、この人生を決めたのは私だし、この先も私の好きにやるんだという彼女達の強い思いが見えるからではないか。

 

 

13千万総ダイエット王国』

例えば「年がら年中」という歌詞を狂ったように繰り返しているのがこの曲の最初のインパクトだと思うけど、その壊れっぷりが、最後には同じく繰返される「お願い」という言葉の切実さに転換されている。世界に対する切実な問い。私たちはどういう世界の中に生きているのだろう。その事と、まさにその世界の中で生きている私がいる。異様な空気に飲込まれながら病的に欲求を生む私を否定して、私は私を救えない。だけどそれでもこの先に愛があるのだと叫ぶのだ。この世界に意味があってほしいと願うのだ。

 

 

 

もちろんこれは自分の人生を真剣に悩みもせずに、絵空事ばかりを考えているいちファンの妄想だけども。ライブを見るまでは、パフォーマンスにおいてもこの感想に近いような、『大人なのよ!』であれば背負ってきたものの「これまで」と「今」を示すような力強さがあって、13千万総ダイエット王国』であれば、異様さを放ちつつもそれと対峙するような悲哀があると思っていた。でも実際に見た雰囲気ではこれとは違っていて、どっちかといえばテクニカルな方向で、ストレートで且つ実直に歌い上げていたような気がする。歌詞である以上に言葉を深追いはしないぞというような姿勢。それがシンプルにすごくかっこいいなと思えた。10年選手としての手慣れた余裕もあり、その貫禄がライブでの迫力を後押ししている気がした。

皮肉めいた言葉を露骨に置きにいくのがつんく歌詞のデフォルトだとしても、世界に対しアイロニーでもって正面切って立ち向かうのは、やはりBerryz工房が一番似合うのではないか。『大人なのよ!』『13千万総ダイエット王国』のパフォーマンスを観たときに、少なくとも「今の」Berryz工房は誰よりもそうではないかと感じた。

世界に牙を向けるために作られた武器(言葉)をその身に搭載されても、それを決して自ら使う気はない普通の女子。搭載された武器に気づかず(あるいはフリをしているかもしれないが)、流行に敏感で周りが常に憧れるような、ただかっこいい女性でありたいと願うごく普通の20代。かつての表現者たちの様に、傍観者でも体現者でもなく、自らが気づくことなく無知であるままにアイコンでい続けようとする姿こそが、堂々としながらどこまでも軽やかな彼女達のパフォーマンスを生んでいる気がした。

彼女達の発するすべてに、何が発射されて誰が爆撃にあうかなんて知らない。ただ好きなように演じてかっこよく決めたい。そんな思いがあるからこそ、言葉に引っ張られて鈍重になったり、世界の動じなさに萎縮してしまうこともなく、シンプルにまっすぐ歌が届いて、アイロニーが突き刺さるのだと思うのだ。名曲。

 

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『あまちゃん』

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NHK朝の連続テレビ小説あまちゃん』。

例の紅白出演は物語世界から飛び出してしまったので別で考えるとして(あれはあれで最高に素晴らしかった)、本編の方って、大人たちの憑落としはあれど、若者たちは、これといった契機もなく、なんとなく売れて(認められて)、何かが結実したとは言えないまま、その先の目標も見えないままだったような気がする。それどころかそのままフェードアウトしていくことを匂わせてもいた。種市先輩(福士蒼汰)がそうであったように、若者たちはふらふら生きていて、誰かが咎めることもなく、それでいいんだと大人たちは送り出して/受け入れているようにも見えた。これは何故だろうとずっと思っていた。

僕は、『あまちゃん』からハロプロに入ったようなファンなので(『あまちゃん』を好きになり、物語内のアイドル役の子がラジオでモーニング娘。の良さを超熱く語っていた)、気付かなかったけど、これは現実のアイドルたちに対する、そしてそのファンたちに対してのある意味で救済の話ではないのだろうか。

アイドルが生きる場所は、可愛ければ良いでもなく、スキルが有れば良いというところでもない。ものさしなんてないしマニュアルも存在しない。彼女たちがいるのは、己の価値と時間をチップに変えて、ひたすらに「運」がくるのを待つような世界だ。自分の存在全てを削るように。そこで引き抜いた「上がり」がたった一瞬の決して永遠ではないものだと知っていても彼女たちは続けている。そしてファンは、きわめて勝手な立場で、彼女たちの人生を考えたりするのだろう。彼女たちのこの先の人生までをも支えられないこと。あるいはこれからどうするのかという度が過ぎた心配を。(自分たちの人生の方がままならないかもしれないのに)。

僕の好きなハロプロのメンバーや、例えば研修生であったり、まだそれだけでは生計が難しいような規模で活動しているアイドルたち。僕らは思い上がりも甚だしいけど、彼女たちのことを思うのだ。認められなかった先の生き方を心配したり、次の生き方を考えないといけない有限性に悲しんだりという風に。

だけども彼女たちにもアイドル以外の別の世界があり、アイドルではない彼女たちを認めてくれる/支えてくれる人たちがいる。誰かにとって北三陸があったように、誰にとっても地元があるように。彼女たちが、ふらふらしてもいいんだ、何かの結実を求めてたとえ叶わなくても、世界は多様であり、この過程こそが豊かな人生の中のかけがえのない一つであるんだと、思ってくれることを何よりも願う。

あまちゃん』最終回、アキ(能年玲奈)とユイ (橋本愛)はお座敷列車にて潮騒のメモリーズ(アイドルユニット)の復活を実現させる。結成前から彼女たちの追っかけであったアイドルオタクのヒビキ(村杉蝉之介)は当然とばかりにお座敷列車に乗っていたが、最後の最後、列車に乗れなかったアキの父親(尾美としのり)にチケットを譲るのだ。アキとユイ、彼女たちのアイドル活動はこの後も続くかもしれないが、最終回のその先の彼女たちを僕たちは見ることはできない。もしかしたらあれは彼女たちの最後のステージだったかもしれない。でもその先は僕らやヒビキではなく、他の誰かが見守ってくれるのだろう。彼女たちを支える他の誰かがいる、だから僕らは安心して最後かもしれない「今」を見届けることができる。ヒビキの行動にはそんな思いがある気がした。

きっとそういうことなんだろう。僕らは思い上がりをやめて、彼女たちの「今」を目一杯応援しよう、そんな風に思うのだ。

 

あまちゃん 完全版 Blu-rayBOX1

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あまちゃん 完全版 Blu-ray BOX 2(Blu-ray Disc)

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あまちゃん 完全版 Blu-rayBOX3<完>

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