「ちみがそ」の宿題

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『エリジウム』 ニール・ブロムカンプ

 

 

エリジウム』(2013年) 監督:ニール・ブロムカンプ 出演:マット・デイモン

 

2154年。人口増加と環境破壊で荒廃が進む地球。その一方、一握りの富裕層だけは、400キロ上空に浮かぶスペース・コロニー“エリジウム”で何不自由ない暮らしを送っていた。そこには、どんな病気も一瞬で完治する特殊な医療ポッドがあり、美しく健康な人生を謳歌することが出来た。そんなエリジウムを頭上に臨みながら地上で暮らす男マックスは、ロボットの組み立て工場で過酷な労働に従事していた。ある時彼は、工場で事故に遭い、余命5日と宣告されてしまう。生き延びるためにはエリジウムで治療する以外に道はない。そこでマックスはレジスタンス組織と接触し、決死の覚悟でエリジウムへの潜入を図る。ところが、そんな彼の前に、一切の密入国を冷酷非情に取り締まる女防衛長官デラコートが立ちはだかる。
<allcinema>

 

ロボットに余命5日を告げられ、生きる為の行動を思案するまでの準備の期間、例えば私達であればベッドが用意され、限りなく静止しているような時間を与えられるかもしれないが、マット・デイモンは身の置き場所を探さねばならず、整理できぬまま覚悟できぬまま、時間は関係なく容赦無く進み続ける。職場から追い出され、自力での帰宅を図り友人に発見されるまでの間の、居場所の無さと、時間の寄り添わなさ。さりげなく語られるこの場面が最も恐ろしいと感じたし、映画が見せるこの世界の形であると思った。永遠というものがあったかのような記憶の中での景色や、そこでの「いつか」という言葉の緩やかな時間、それらはどこにあるのか今も続いているのだろうか。命の期限が迫っているからというのは当然であるが、それ以上に気づけば削られていた時間と場所の感覚こそが、なりふり構わない、無理やり進まなければならないという、彼を突き動かすものとしてあるように思えた。行かなければならないという思いは、偶然や都合や敵すらを取り込み、力ずくで大気圏を超えたあの距離を突破するのである。

そして、エリジウムに辿り着く時の転がり込むようなあっけなさよ。エリジウムは遠くから眺めるべき何か。どこからでも見えるが拒絶された場所。それが手元に届くかというときのあまりに頼りない感触。中枢までの通路での、現実感のないままの死闘。マット・デイモンの終着とはなんだったのか、それはエリジウムの終わりの始まりなのか。地球に外付けされた楽園、あるいは脳とプログラム、人体と機械(外骨格)、社会とロボット、生命とテクノロジー、すべての苦悩から切り離したいとするそれらは、常にアンバランスに混在したまま繋がっている。一方に完全に移行するには、一方の完全な死を意味する。そして一方の死とはすなわちもう一方の死である。故にここで疲弊して世界の終わりまで生き続けるしかないのか。どこまでも混ざり合ったまま「いつか」ある死を待つだけなのだろうか。先のわからない、半ばヤケクソな問いを。

だがどうだろう。マット・デイモンが薬を丸ごと飲み込んで奮い立つ姿に、あるいはクルーガー(シャールト・コプリー)の恐れを知らず突き進む姿に、他のすべてを失ってもやらなければならないという2人の戦いに、何かの結実とは別のところで、一瞬の自由を見た気がした。

 

 

ニール・ブロムカンプ - 映画.com

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