『グラン・トリノ』
『グラン・トリノ』
監督:クリント・イーストウッド
劇中において、イーストウッドがグラン・トリノを大事にするも、乗車したり実際に走るシーンがないのと同じような理由で、「殺し」が在り、「殺し」に憧れを持つも、「実行はされない」のではないか。グラン・トリノを見て、久しぶりにピカピカした車をかっこいいと思ったけど、「殺し」というのもそれだけ魅力的なものかもしれない。行為そのものの快楽といった意味ではなく、未来にひとつ多く可能性を与える行為として。だが、実際に「殺す」は行われないのだ。倫理の問題でも、宗教でもなく、ましては社会的制裁が待つからでもなく、RPGで言うところの「こうげき」「まほう」のような、ただ選択肢としての「殺す」が立ち行かなくなっている、その選択の先に未来の何も想像できないということ。「殺し」という手段は常にあっても「殺す」ことで選択される未来がまるで見えない、時として拠り所となる「殺す」がその有効性を失ってしまったのではないだろうか。「報復の連鎖」「暴力の歴史」が決して断ち切られないのは、何よりも「殺し」が有効であったから。だけどそれが永劫続くとは思えない。「殺し」を有効に思えない、複雑さの中に、或いは新しい時代に、足を踏み入れてるのではないか。そしてイーストウッドはそれに気付きながらも、何ら抗う(納得を持って向き合う)方法を見つけ出せていないように思う。例えば、行き場の無い窮屈さをまるで意に介さないようなモン族一家のたくましさや図太さ、錆びた街を歩く少年タオとチンピラ車の「遭遇し」「捕食される」しかないという生活圏の薄暗い堅牢さ、少年タオを絡め取ってそのまま引きずり込むような街路からの光景の無感動さ、それらのシーンのずっしりと映画に根付くようなリアリティ(私たちがいる場所の逃れ難い感触)を、クライマックスであるイーストウッドのあの行動からは感じることができなかったからだ。どこかそのシーンだけ現実感が無かった、まるで神の行いのような、後になって「あれは本当に起きたんだろうか」という幻想の、ある種の希薄さを持っていたように思う。私はその後駆けつけるタオと姉スーの表情と、それを確かめる若い神父の顔にこそ惹かれてしまう。それこそがあの街から生まれて、これからを覚悟させられるものであるから。
イーストウッドがグラン・トリノに何故乗れないかは、もちろんそれが有効ではないから。では少年タオに引き継がれ、乗り手を手に入れたグラン・トリノは何を示すのか。これもまた老人の夢のように希薄であった。そう、すでに終わってるけど、これで終わりではないのではないか。
『ハンナ』
『ハンナ』
監督:ジョー・ライト 出演: シアーシャ・ローナン エリック・バナ ケイト・ブランシェット
- 2011年公開
- 『つぐない』『ラブリーボーン』『レディ・バード』のシアーシャ・ローナン主演
- 『つぐない』のジョー・ライト監督
- 米Amazonにてドラマシリーズ化予定
元CIA工作員の父にフィンランドの山奥で人知れず育てられた16歳の少女、ハンナ。幼い頃から格闘技をはじめあらゆる戦闘テクニックを叩き込まれ、ついにその戦闘能力は父をも凌ぐまでになっていた。そして、父のもとから旅立つことを決意したハンナ。父はそんな娘に、かつての同僚であるCIA捜査官マリッサに命を狙われる、“彼女に殺されるか、お前が殺すかだ”と忠告するのだが…。
<allcinema>
少女ハンナは、フィンランドの雪山で父親と暮らし、外界と関わることはない。殺人のプロとして育てられたハンナの日常は、狩猟やトレーニングが主だ。そこには静寂と、あるいは極めてシンプルな生活音しかない。また彼女にとって「音楽」とは本の知識でしかなく、いつか「音楽」に触れることを夢見ている。
音楽とは何か。組織された音。美しい和合。ときに感情を表現するもの。彼女は逃亡先ではじめて音楽に出会う。だが彼女が出会ったのはそれだけではない。街の喧騒の猥雑さもまた彼女がはじめて体験する「音」であった。文明が創り出した騒音にパニックとなり逃げ出す描写もあるが、特徴付けするまでもなく、雑踏に溶け込み掻き消されるはずの音が、クリアにひとつの音として自然と耳に残るような作りとなっている。これはおそらくもう一度観ないと確信は持てないのだが、そうした音が引き連れてくるようにして劇中音楽が重なってくるのである。雑踏の中に耳を澄ましていると、散在する独立して生まれたはずの音と音が組み合わさって「音楽」になるような錯覚といえば大袈裟すぎるが、それに近づこうとする意図を感じた。本の知識としての「音楽」には、喧騒やその他の騒音とを区切る確かな線引きがある。だが彼女の体験としてのそれに、はっきりと線を引けるだろうか。
喧騒を再構築せよ。彼女を知るには、雑踏に溺れて世界(音)を泳げよ。出来ないのならば、俺はハンナの何を知っているというのか。我々が捉えようとした彼女の表層は、単に見たいものを見ただけである。あるいは父親以外の人間に触れ世界を体験する彼女のさまざまな変化から彼女の内面を読み取るとき、我々にとって都合のいい誘導が行われていただけではないのか。誰もハンナを知れない。
ラストシーンの反復が決定的であるのだが、他でも、父親やアメリカ人の旅行一家とのやり取りの中に、思い返してみるとその行為や台詞の至る所に微かな違和感の残していたことがわかる。彼女の友情をありがとうという言葉は、友情というものが関係性ではなく、命を奪うことによって糧を得る彼女のこれまでの生き方と地続きの感覚として、例えば食料と等価であるようなものとして捉えているのではないか。
また父親や様々な人に助けられて彼女は追っ手から逃れられるのだが、彼女は、残された人々の行く末についての想像力が希薄ではなかったか。必死であるがゆえ思考が及ばないというのは当然かもしれないが、それ以上に、彼女は自分の後方に在るものに対しての感情が欠如しているように思える。彼女は、本能あるいは彼女の特殊な能力として、父親の死の瞬間を感じ取ったのかもしれないが、だがそこにわかり易い感情は読み取れなかった。ハンナとはいったい何者なのか。
父親は知りたい世界の一部だけしか与えてくれなかったので、彼女は勝手に走り去っていった。そんな単純な一文で完結してしまってもいい。彼女は自分のことを我々に容易には教えてくれないのだ。誰もハンナを知れない。
少女はタフだし、大人はずっと分からないままである。
『ダークナイト ライジング』
『ダークナイト ライジング』
監督:クリストファー・ノーラン 出演:クリスチャン・ベール トム・ハーディ アン・ハサウェイ ジョセフ・ゴードン=レヴィット
ベインの彼自身のマッチョさやそれまでの犯罪行為のシンプルな暴力性が、禍たらんとする清廉な悪意と、それが在ろうとするべき強靭さを見れたのだけど、スタジアム入場前の廊下で出番を待つ彼の、待つこと/確認することの僅かな時間・秩序に、(これはオチがわかってからの後付けかもしれないが)体現者ではなく遂行者としての憂いをみた気がした。それがとても色気があったのだ。ジョーカーの、世界を演じなければならないその絶望的なまでの渇きではなく、少し甘ったるい感触ではあったけれど。
やはりこの映画のピークは、予告編にもあったフィールドが落っこちて、ベインが科学者をポキッとやるとこまでだろう。『ダークナイト』がジョーカーが警察署を脱走するまでがピークだったように。同様に、オープニングが最高であるし。しかしながら、ゴッサム占拠からの流れは、あんまし良くない。あの流れで連想できる絶対見たい描写がことごとく微妙という。
だけども後半は、全体を多少犠牲にしても「バットマンが帰ってくること」の物語に重きを置いたんではないだろうか。3作のうち、作品自体は別にしてどのバットマンが好きかと言われれば、今作と答えるかも知れない。それは遂に今作でバットマンが、単なるシルエットの存在になりえたから。やっとブルース・ウェインの存在から切り離されたといっていい。これまでのゴッサムにあらわれる黒い影は、街の人間からすれば自警団気取りの犯罪者、あるいはスクリーンから見れば、黒の下に苦悩を隠す者であったはずだ。つまりは、黒を纏う「何か」は、「何か」であるからこそ重力のような逃れ得ない鈍重さを持たざるをえないのである。だがライジング終盤でのバットマンの、神出鬼没で好き勝手に飛び回る姿はどうだろう。その姿は、前作と変わらないはずなのに、あらゆる呪縛から解き放たれたかのように自由に見える。またはアクションシーンにおいても、まるでガジェット初登場時の「こいつが派手に動くことこそが正義」の方式が変わらず採用されているかのような、あるいは無数のパトカーを引き連れてしまった事体にどこか嬉々としているような身軽さで、終盤のそれは迷いなく吹っ切れている。(ご都合主義で勢いだけのアクション映画と揶揄されてしまうだけのものかもしれないが。)
キャットウーマンや熱血刑事のそれぞれに、シルエットは何を写すだろう。シルエットに何をみるのだろう。ブルース・ウェインもまた離れてはじめて、それと対峙できるのだ。「ヒーローがあらわれること」の超越性はこれまで(というより常に)、秩序は崩壊しうること/恐怖は否応無く訪れることの裏返しであったし、ブルース・ウェイン=バットマン自身がその事にとらわれていたのである。今作で「ヒーローがあらわれること」の事実性が、誰かの意志を試すもの、あるいは素直に見る者の希望に繋がっている事がうれしい。それには何よりもここまでの、これほどの過程が必要だったのである。ブルース・ウェインはようやく救われたのかもしれない。
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- 出版社/メーカー: ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
- 発売日: 2016/02/24
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『マッドマックス 怒りのデス・ロード』
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(原題:Mad Max: Fury Road)
監督: ジョージ・ミラー 出演:トム・ハーディ、 シャーリーズ・セロン、ニコラス・ホルト
あらすじ <allcinema>
石油も水も尽きかけ荒廃した世界。愛する家族を守れなかったトラウマを抱え、本能だけで生き長らえている元警官、マックス。ある日、資源を独占し、一帯を支配する独裁者イモータン・ジョー率いるカルト的戦闘軍団に捕まり、彼らの“輸血袋”として利用される。そんな中、ジョーの右腕だった女戦士フュリオサが反旗を翻し、ジョーに囚われていた5人の妻を助け出すと、彼女たちを引き連れ逃亡を企てたのだった。裏切りに怒り狂うジョーは、大量の車両と武器を従え、容赦ない追跡を開始する。いまだ囚われの身のマックスもまた、この狂気の追跡劇に否応なく巻き込まれていくのだったが…。
人間をモノとして扱う行為が、荒廃した世界で生き抜く為の合理的な方法であるならば。
私の知る現在のこの世界もまた「合理的」だったのではないのか。
「求める機能以外を発揮するな」と言ってしまえるのは、はたしてイモータン・ジョーの支配だけか。
モノからの逸脱こそが生の獲得だった。この映画はまさしく現在の物語でもある。
フュリオサ(シャーリーズ・セロン)
幼少期にさらわれ、ジョーの子産み女となり、幾度も逃亡を図るも失敗、おそらくそのせいで片腕を失う。その後はジョーの配下の大隊長として戦闘集団ウォーボーイズを引き連れるまでになっていたが、ずっと内には怒りを秘めていたのだろう、20年に及ぶ願いを果たすべく、幽閉されていたジョーの妻達と共に故郷「緑の地」を目指す。
原題であるFury Road(直訳:怒りの道)とは何か。誰の道か。分からないが、どんな困難であっても、(自分だけではない)どれだけ多くの祈りをその身に抱えていても、彼女は強く踏み出すことが出来る。突き進むことをおそれずに続けられる。その強い意思。20年間絶えることなかった怒りと共に。そう、これはきっと彼女の道。彼女の物語である。
マックス(トム・ハーディ)
物語冒頭でいきなり捕まる。主人公であり、ウォーボーイズの「輸血袋」。ジョーを裏切ったフュリオサを追う為に駆り出されるウォーボーイズ達の「モノ」として、たまたまフュリオサ達の旅に出会ってしまう。半分は巻き込まれだけど、やがて自らの意思と生き抜く強さで、フュリオサを導いていく。
彼は自らの過去に起きた何かによって、亡霊にとらわれている(幻覚を見ている)。詳細は分からないが、彼からフュリオサへの「希望は持つな、心が壊れた先にあるのは狂気だけだ」という言葉から、彼がかつて生き抜く以外の願いを持っていたことが分かる。フュリオサを導くことが、自らの何かを取り戻すことでもあるという、これは彼の旅でもあった。
始まり:ウォー・タンクと共に出発
ガスタウンへと向かう取引当日。「緑の地」を目指す逃亡計画。フュリオサが初めて登場するシーンは、大隊長として現れる。堂々たる戦士としての後ろ姿で。そして首元にはジョーの焼印。この場面のフュリオサが素晴らしい。きっともうここから絶対に折れることはないと「決まって」いたのだ。向けられる暴力に怯まず進み、向けられる祈りに押し潰されて立ち止まることもしない。打ち砕かれ傷付いた心はあるが、対峙するものに決して内側はみせない。不確実な未来に絶望もしない。選択肢と燃料がある限り、求め続ける。
事の起こりも、始まりの怒りも、混沌の中にあってもはやそれだけを取り出す事は出来ない。もう既に「始まった」世界で、覚悟も過去も装填済みなのがフュリオサなのだ。物語はいつも途中。映画は唐突でいい、世界がそうであるように。
或いは、モノであることの信仰の有無がウォーボーイズとジョーの妻たちの違いならば、生存の対価としてモノであったはずの幼きフュリオサは、どのようにして大隊長になったのだろうか。そこには見えない物語がある。止まることのないウォー・タンク。もしかしたらアクションとは「見えない物語」を運んでくるものではないか。
折り返し:静寂の夜
フュリオサとマックスの共闘、そしてウォーボーイズだったニュークスも仲間に加わり、なんとかジョー達の追手から逃れることができる。そしてフュリオサの故郷の仲間である「鉄馬の女」達と出会う。故郷「緑の地」はすでに失われていた。フュリオサの咆哮。それぞれの夜。
約束の地はなかった。それでもフュリオサは、その日の夜に、次に何をすべきかを決意してみせる。誰かの決死を多く抱えて、何も果たされず虫ケラの様に死なせてしまうかもしれないのに、荒野を渡ることなど出来るのだろうか。変わることのない過去達がいつだって未来を塞いで見えなくしている。それでも彼女は迷いなく決意する。まるで私達が手放してしまったものが、まだ彼女の中にはあるように。かつての逃亡の失敗のあとにも、幾つもの夜が訪れたように。それは静寂の夜の如く、何度だって。
再び:イモ―タン・ジョーの砦へ
「緑の地」は失われていた。さらに遠く塩の湖を超えて、生きていける大地を探す。あてのない旅に向かおうとするフュリオサに対しマックスは、あなたの故郷はここだとジョーの砦を指す。砦の奪取こそが、行くべき道。まるで黒沢清『トウキョウソナタ』(2008年)で、母親の小泉今日子が逃亡の先の海で「不在」を見たように。塩の湖と夜の海。砦と家庭。行き着く果てに「不在」を見つめて、行くべき道は「帰路」であると知る。
来た道を戻る。ジョーの部隊が襲い掛かる。それぞれの決死。フュリオサは傷を負う。仲間のひとりは奪われ、エンジンは壊れかけている。絶体絶命の中でフュリオサは「見る」のだ。それは状況の把握でもあるが、きっと自らが背負っているもの、手にしているものを見つめる為に。ゆっくりと。眼差しの先。彼女はそのひとつひとつを確かめ、屈することの無い力を再び点す。決して手放しはしない怒りと共に。
帰還:終わりと始まり
お前を殺そうとするもの、お前を従わせようとするものに立ち向かえる力とは何か。全てを削ぎ落とされて、それでも残る力の根源とは何か。モノであることからの帰還。きっとこのラストシーンの先にあるのは、新たな苦しみだろう。資源、統治、外敵。だが当然だ。アルフォンソ・キュアロン『ゼロ・グラビティ』のように、これは「始まり」に帰還する映画なのだから。 フュリオサや妻たちは「始まり」に帰還する。あるいはニュータスもそうかもしれない。モノから逸脱し、生を獲得するまでの旅。
はたしてフュリオサはあの砦を統治できるのだろうか。どんな未来だって考えられる。だけどサンドラ・ブロックが大地を踏みしめた時「この先もツライかもよ」なんて言う奴はいない。私達はいつだって未来に恐怖している。それは当然のことである。
この世界で
イモータン・ジョーの世界(確定的で、使命を得る=答えがある場所)と、フュリオサの世界(不確定で、欲望を持つ=答えの無い場所)の間を行き来し、絶えず揺れていたのがマックスとニュークス。イモータン・ジョーの世界を殺して(否定して)、はじめてマックスは自分の名を告げることができたのではないか。
母の前で産声を上げるように。ケイパブルを見つめて「俺を見ろ」と言うニュークス。フュリオサに自分の名前を告げるマックス。あるいは母達とは新しい世界で、男達とはそこに生きる者達の事かもしれない。どんな場所に生まれ落ちても、俺は生まれたと私達は叫べるのだ。
『桐島、部活やめるってよ』
監督:吉田大八 出演:神木隆之介 橋本愛 大後寿々花 東出昌大 松岡茉優
(ネタバレ)
登場人物すべてが何かしらの切実さを抱えており、普段それは誰かに向けられるものではなく、というよりも常に回避され隠されるべきものであり、しかし映画は、それぞれの切実が外に向いてしまう瞬間を、周到に適切なタイミングで用意している。その瞬間が見せるのは、切実さは外に向けた途端、敵意に近いような歪なものになるということ。
学校という環境が特別であるから起こるわけではなく、切実さはどんなときだって普遍的に持ち得るものであり、この映画に対し、自分の高校の話とか、あの頃はどうだとかいう話は、あまり言いたくはないなと思う。それは、過去は常に無自覚であった時が大半であるような気がするし、10代なんて圧倒的にそうであったはずだし、その曖昧な空間を、映画が隙間を埋めるように浸食して、思い出はいつも虚構であることの脅威があるから。あるいは登場人物たちへの共感は、彼らへの不誠実さである気がしてならない。あるあるとか絶対言ってやるかっていう。彼らの行動は、観る者の誰かにとってはリアルかもしれないけど、誰かの「いつか」のトレースだったら、彼らはいったいどこに居るんだっていう。そう思わせるような切実さが、吐き出せば不協和しか生み出さないかのようなそれが、映画の中に確かにあり、ぐらぐらと不安定な彼らの場所/関係性と共に描き出されていくのだ。
そして重要なのが、この映画の「視点」である気がする。登場人物たちが、持ち得ることのない視点。この映画のクライマックスはどこだろうと考えたとき、それはその視点と対峙したときではないだろうか。神木くんのカメラが映す先は、彼の主観であり、切実さそのものだ。だが神木くんから宏樹に向けられる時。手持ちの8ミリカメラに宿るそれは、レンズの向こうのそれは何なのか。神木くんから宏樹への視線は、カメラを介することで、すでに神木くんの視点では無くなっているのではないか。たとえば冒頭、桐島の彼女が歩く姿を高所から捉えた場面のような、そこに宿るのは、映画が終始持ち得ていた視点ではないのか。宏樹はその視点と対峙させられる。それは、自身の切実さに無自覚であろうとし続けた彼の正体を暴くのだ。
桐島の不在とはつまり、「終わり」であり「終わってしまった」ことそのものについてなんだろう。はじめに終わりがあり、それをごまかし続け足掻く人間と、最初から終わりであることを知ってしまった人間の物語。残酷だけど、きりきりと確実に、ゆっくりと人を殺すことの美しさがラストシーンであり、それだけでもこの映画を価値あるものにしている。
けれども死んでも生き続けなきゃならない、それは自明のことなんだよ。
『ローン・レンジャー』
監督:ゴア・ヴァービンスキー 出演:ジョニー・デップ アーミー・ハマー
- コマンチ族は、我々はすでに亡霊であると武器を手にする。トントは悪霊と契約したのだと、さまよい続ける。運命の重さと選択の鈍い音。だが主人公(アーミー・ハマー)が無法者になろうと決意する時の、まるで手にする武器を変えただけかのような身軽さは何であろう。運命に捕らわれない故にヒーローなのだ。
- ヘレナ・ボナム・カーターも良い。主人公とトントの道中に彼女を加えた方が華があった気もするが、そうはいかない。彼女は主人公達の背中を押すだけ。 その関わらなさと、一瞬の派手さと、直後の飄々とやり過ごす姿と。そこには彼女の強さと気高さがあり、とてもかっこ良かった。
- 逆襲のはじはりが、ゆるやかに動き出す。したたかな合図から、もう動き出してしまったことに迷いはいらない。列車の上、橋までの間。アドリブの中で過去との決別が軽やかに行われることが素晴らしい。
- 登場人物たちの向かうべき時の独特のしなやかさは何だろうか。『3時10分、決断のとき』でもそうだった。ラストにラッセルの、それまでの道のりの重さを引き受けたまま置き去ることなしに、勇むことも躊躇することもなく平静に踏み出す「出発」の軽妙さよ。
- 悪が運び込まれる(キャベンディッシュ)、不吉を呼び込む(少年トントと白人)ことで始まった物語は、自らが運び出すこと(機関車)で追い払うという。運命にケリをつけることが、ゆっくりと動き出す鉄の塊の、その重さの確かさによって果たされるのだ。ここすごく良い。
- あと、なぜ語り部が必要なのかは少し考えてみるべきだろうか。『パイレーツ・オブ・カリビアン』3作において(特に2作目だが)、オーランド・ブルームやキーラ・ナイトレイが選び取るものは常にジャック・スパロウが持ってきたものの中からであること。世界と彼らが接続するには?間には常にスパロウがいる。世界はスパロウを通してしか見えないということ。
- ローン・レンジャーは死なない男とされている。まるで彼が選び取る手段こそが、【未来】に向かうための唯一の方法のように。我々を目的地に運ぶために、そこに向かう意思の具現である故に、彼はヒーローなのではないか。
『風立ちぬ』
羽海野チカの将棋漫画『3月のライオン』に出てくる名人がいるが、十数年勝ち続けてて圧倒的に強いけど、漫画の主人公である高校生棋士と同じくらいの幼い容姿で、色白で、華奢で、将棋以外はぼんやりしてて、物静かを超えてもはや気配を消せてしまっているレベルっていう、その名人を指して「もし悪魔がいたとしたら、案外こんな姿かもしんねえ」という場面がある。『風立ちぬ』の主人公(堀越二郎)を見てこのエピソードを思い出してしまった。
なぜ堀越二郎は、(映画に直接は描かれなかったが確かに存在する)夢を叶えることなく死んでいった者たちのように夢を奪われることは無かったのか。なぜ彼は、その身の危険を周りの人間に救ってもらったのか。結果幸運にも生き延びることができたのか。仕事を続けることが出来たのか。なぜ彼は、自身の夢に対しまっとうなエクスキューズを与えてしまったのか。彼が何を為したのか映画だけでは良く分からなかったが、問題はそこではない。彼は、自身の意志や行為がどんな未来に接続されるのかを知っていたのだということ。ただ彼は想像しながらも、自身の根源的な欲求とそれとは無自覚に切り離しているような気がした。つまりは関係ないと。自分は悪魔ではないと。
やはりあの冒頭の数分間、あの時に彼は呪われたのではないか。それは「美しくも呪われた夢」といわれた飛行機の設計に捕らわれることではない。それは、美しいと思う己の内に介入できないことだ。無力であること。顧みることができないこと。疑うことができないこと。
或いは、むしろ呪われることで、人は世界と接続できるではないかということ。それまで世界は曖昧なままだから、「まじない」が必要だ。眼鏡を掛ければ世界を見ることができるように。冒頭の朝の光景の、(不穏というほどでもないが)わずかにあやしさを放ち、張り詰めた静けさ。そして落下。その後も、繰り返される墜落の場面。それは彼の挫折であるが、同時に彼の欲望が思わず漏れ出てしまう場面としか思えないのである。
これは不完全なヴィランが世界と対峙する物語ではないか。この映画はヴィラン視点から見た世界ではないのか。あらがえない運命、個人ではどうすることもできない流れというものがあるかもしれない。世界が良くない方向に向かっていて誰しもが漠然と感じているが、誰もそれを止めることが出来ない状態(それを推し進めるのは自分たちであったとしても)。仮にそんなものがあるとして、超越的な意思や力が世界を良い方向に修正してくれるということはあるのだろうか。あるわけないのだ。だからこそ、幻想の形としてヒーローが描かれるのである。ヴィランという言葉は、このヒーローの反対の言葉として選んだのだけど、彼の対峙する世界にヒーローは決して現れることは無い。ヴィラン視点から見る世界は、常に不吉な影がある。彼の命を、彼の夢を奪わんとする様々な脅威。形の無い、常にうごめく暗示。ドイツの夜での不穏な陰影。だが彼は退治されない。彼の前にヒーローは現れないのだ。彼の呪いを超える幻想は無いということ。世界は変えられないということ。最後に辿り着く場所。
それでも彼は生きねばならない。
余談だけど、自らが強大な力を持ち、また努力次第で宇宙を変えてしまえるかもしれないと分かったとき、あなたならどうするだろうか。どうしたって宇宙を巻き込んでしまう、且つ全ての生命の総意なんて聞くことなんてできない欲望を、はたして留めておくことなんてできるだろうか。自分の力を凌駕する者が止めてくれない限り、立ち止まるなんてできないのではないか。そんな意味でなんとなく『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』のサノスのことも思い出した。ヴィラン達が見る世界。
『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』 - 「ちみがそ」の宿題